日本大百科全書(ニッポニカ) 「美馬順三」の意味・わかりやすい解説
美馬順三
みまじゅんぞう
(1795―1825)
江戸後期の蘭方(らんぽう)医。阿波(あわ)国(徳島県)の生まれ。名は茂親(しげちか)、如柳(にょりゅう)と号した。京都就学を経て、長崎に行き、オランダ通詞吉雄権之助(よしおごんのすけ)(1785―1831)・吉雄忠次郎(1787―1833)らにオランダ語を学び、また末次忠助(1765―1838)に天文学を習った。出島オランダ館に出入りが許されて、オランダ館長ブロムホフJan Cock Blomhoff(1779―1853)と交わり、1823年(文政6)来日のシーボルトに師事して、出島のシーボルト外科部屋の最初の聴講生の一人となり、長崎郊外にシーボルトの鳴滝(なるたき)塾が設けられたとき、初代塾頭となった。シーボルトの日本研究に協力して、日本の産科書や鍼灸(しんきゅう)書をオランダ語訳して提出、これらはオランダとドイツの学術雑誌に順三の名で掲載された。文政8年6月11日、コレラにかかって31歳の若さで長崎に没した。
[宗田 一]