女川湾北方に位置する離島。村名は内陸から前方に離れ出た島だからという(女川町誌)。正保郷帳に田三三六文・畑五二五文とある。牡鹿郡遠島女川組大肝入扱いのうち。藩政期を通じ蔵入地で、「牡鹿郡万御改書上」によれば、元禄年間(一六八八―一七〇四)の田五四五文・畑五〇八文で、茶畑九七文・海上高一貫四四八文、人頭一〇人、男九二・女六八、出島在家東西四九間・南北三〇間があった。その後享保八年(一七二三)出島百姓長兵衛は組頭肝入など五人の連名で、
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江戸時代、鎖国期間中に長崎に来航するオランダ人の居住地にあてられ、オランダ東インド会社の日本商館が置かれていた扇形の築島(長崎市出島町)。オランダ人の記録によると、当初は出島とはよばず、単にツキシマ(築島)とよばれていたらしい。オランダ語でも「島」eylandと記されている。
1634年(寛永11)、江戸幕府はキリシタン禁教政策の一環として、長崎に来航するポルトガル人を日本人から隔離し収容するため、25人の長崎商人に命じて、長崎港内の一隅を埋め立てて海岸から突出する扇形の築島を築かせた(1636年に完成)。しかし、天草・島原の乱ののち幕府は1639年にポルトガル人の来航を禁止したため、ここは空き家同然となったが、1641年にはオランダ船貿易を長崎奉行(ぶぎょう)の監督下に置くため、平戸(ひらど)にあったオランダ商館をここに移転させた。以来1855年(安政2)の日蘭(にちらん)仮条約締結まで、オランダ人の在留はこの島のみに限定され、商館長の江戸参府や長崎諏訪(すわ)大社の祭礼(おくんち)などの行事を除いて、オランダ人が出島から出ることは原則として禁止されていた。
出島の面積は約1万3117平方メートルで、扇形をなし、周囲は高い板塀で囲まれ、江戸町に面した北辺の中央部に橋があって長崎市内と結ぶ唯一の出入口となっていた。ここには番所が置かれ、遊女と高野聖(こうやひじり)を除く一般の日本人の出入りを禁ずる旨の高札が立てられていた。島の西辺には船荷の積み下ろしをする河岸(かし)と水門が設けられていた。出島の内部は東西と南北に走る2本の道で四分され、各区画内には商館長の住居(甲比丹(カピタン)部屋)をはじめ、商館員の居住する家屋や船員の宿泊施設、倉庫、通詞(つうじ)会所や日本人役人の詰所、花壇や菜園があり、入口付近の北西の区画内にはオランダ国旗を掲揚する檣(ほばしら)が立てられていた。
出島は鎖国期間中、数度火災にあい、再建されたが、幕末期には住宅・倉庫など65棟を数えた。オランダ人は、前記の出島を建設した長崎町人25氏に賃貸料として年間銀55貫匁を支払った。
出島は開国後オランダ人居留地となり、明治初年に埋め立てられて今日では市街地の一部となり、出島町という町名にその名をとどめるのみとなった。島の結構も、かつての江戸町とこれに接する島の北岸の間を流れる水路の湾曲部分と石垣にわずかにそのおもかげをとどめるにすぎない。現在、「出島和蘭(オランダ)商館跡」は国の史跡に指定され、近年、開国後に出島に建てられた聖公会の教会が復原されて出島資料館の一部となっている。
[加藤榮一]
『『長崎市史 地誌編・名勝旧蹟部』(1937・長崎市)』
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長崎市出島町にあったオランダ人居留地。もとはポルトガル人を日本人から隔離するため,1635年(寛永12)長崎湾内に築造された島である。41年ポルトガル人の来航が禁止されると,同年オランダ商館は出島に移転を命ぜられ,1856年(安政3)までここに置かれた。オランダ人が居住した時代がはるかに長いため,ふつう出島とは,オランダ商館所在地と考えられている。商館員の居留地は出島にのみ限定され,許可がないかぎり,他の地域に立ち入ることを許されなかった。出島は面積3969坪,扇形の人工の島で,町との間には橋があった。中央を貫通する道路と,これと交差する道路により島は4区画に分かれ,ここにオランダ人居宅,日本人諸役人・通詞(つうじ)の家,各種倉庫など,65棟が建っていた。出島に滞在するオランダ人は9人から12人で,彼らみずから〈国立の牢獄〉と呼ぶほど,不自由な生活を送っていた。出島でオランダ人と直接交渉に当たったのは出島乙名(おとな)で,島内に居住した。出島への出入りは一般には禁止されていたが,長崎奉行所役人,長崎町年寄,オランダ通詞,出島乙名,組頭,日行使,五箇所宿老,出島町人は,公用の場合にかぎり出入りを許された。商人や町人は,その居住町の乙名に願い出,この乙名から出島乙名に人数・用件を届け出て,はじめて出入りが許可された。幕末の1855年オランダ人が長崎市内を自由に散歩することを許され,翌年出島開放令が出され,出島乙名,番人などは出島から引き揚げて,出入りはまったく自由になった。現在は堀が埋め立てられ,長崎の町と地続きになっている。
執筆者:永積 洋子
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江戸時代,オランダ人が居住した長崎の人工築島。当初はポルトガル人の隔離を目的として,1636年(寛永13)25人の豪商の出資により築造,ポルトガル人を収容した。39年ポルトガル人が追放されたため,41年平戸のオランダ商館が移された。内部にはカピタン部屋・通詞部屋・乙名(おとな)部屋・紅毛人部屋のほか土蔵・菜園・家畜小屋などがあった。出島のオランダ人は自由な外出を禁止され,日本人の出入りも町年寄・通詞のほかは出島乙名・組頭,金場役,筆者,料理人,コンプラ仲間(食料・諸色売込人)などの出島役人や遊女に限られた。商館跡は国史跡。なお同地では長崎市による出島復元事業が1996年(平成8)より開始され,順次公開されている。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…人口1万9067(1995)。1997年出島村が町制,改称。霞ヶ浦に突出した半島状の地域を占め,町域の大部分は台地である。…
※「出島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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