鳴滝塾(読み)ナルタキジュク

デジタル大辞泉 「鳴滝塾」の意味・読み・例文・類語

なるたき‐じゅく【鳴滝塾】

シーボルトが、文政7年(1824)に長崎郊外の鳴滝に開いた診療所兼蘭学塾。江戸芝蘭堂、京都の適々斎塾緒方塾)と並び称された。伊東玄朴高野長英らの人材輩出した。

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精選版 日本国語大辞典 「鳴滝塾」の意味・読み・例文・類語

なるたき‐じゅく【鳴滝塾】

  1. 江戸後期、シーボルトが長崎鳴滝に開いた診療所兼蘭学塾。江戸の芝蘭堂、大坂の適々斎塾と並び称され、伊東玄朴、高野長英らを輩出。

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改訂新版 世界大百科事典 「鳴滝塾」の意味・わかりやすい解説

鳴滝塾 (なるたきじゅく)

シーボルトが長崎に設けた学舎。シーボルトは1823年(文政6)に出島商館付医師として日本に着任し,長崎奉行の特別の好意により,はじめ商館の外科室で,ついで市内の外科医吉雄幸載および楢林宗建の私塾を借りて,患者の診療と医学生の教育にあたった。しかしまもなく門人や患者がふえたため,翌年には奉行許可を得て長崎郊外の鳴滝に学舎を設けた。学舎は,シーボルトの研究室および居室と学生の宿舎,それに診療室からなり,シーボルトは週に1回ここに出張して,診療のかたわら臨床講義を行い,また自然科学全般について講義をした。学舎の周囲には薬草類が栽培され,シーボルトみずから薬草を処理して製薬し,門人を指導した。彼の門人は全国から集まり,今日判明しているだけでも50人を超える。著名な門人には美馬順三,二宮敬作高良斎岡研介,高野長英,伊東玄朴,戸塚静海,大石良英らがおり,彼らの多くが次代の蘭学の担い手となった。
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百科事典マイペディア 「鳴滝塾」の意味・わかりやすい解説

鳴滝塾【なるたきじゅく】

1824年長崎郊外鳴滝(現長崎市内)にシーボルトが設けた塾。シーボルトは出島(でじま)から一定の日に出張し,患者の診療,門人への講義,研究を行った。門人は全国から集まり,美馬順三(みまじゅんぞう),岡研介(おかけんかい),高良斎(こうりょうさい),高野長英(たかのちょうえい),石井宗謙伊東玄朴(いとうげんぼく)ら,次代の蘭学の担い手となった多くの人材を育てた。
→関連項目私塾

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「鳴滝塾」の意味・わかりやすい解説

鳴滝塾
なるたきじゅく

シーボルトが長崎近郊に設けた診療所兼学舎。長崎出島(でじま)蘭館(らんかん)医師として1823年(文政6)来日したシーボルトは、初めは出島内で診療にあたっていたが、名医の評判が高まり、通詞吉雄幸載(つうじよしおこうさい)や楢林宗建(ならばやしそうけん)らの尽力で、5日に一度出島から楢林家に出張して診療と臨床講義を行うようになった。翌年日本人通詞の名義で長崎郊外鳴滝に二町歩余の土地を購入し、母屋(おもや)二棟と別棟二棟の診療所兼学舎を建て、出島から通って日本人の診療と医学、自然科学を教えた。彼に学んだ者としては、二宮敬作、美馬順三(みまじゅんぞう)、岡研介、高良斎(こうりょうさい)、高野長英(ちょうえい)ら50余名があげられ、当時の蘭学に大きな影響を与えた。遺跡は国史跡として長崎市鳴滝町に保存されている。

沼田 哲]

『呉秀三著『シーボルト先生・其生涯及功業』(1926・吐鳳堂)』『沼田次郎著『洋学伝来の歴史』(1960・至文堂)』

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「鳴滝塾」の解説

鳴滝塾
なるたきじゅく

シーボルトの診療所兼私塾。1823年(文政6)オランダ商館付医師として来日したシーボルトは,はじめ長崎出島の外科室で診療にあたったが,名声が広がり,通詞の楢林塾・吉雄塾を借りて診療と医学教育を行うようになった。翌年長崎奉行の許可を得て,長崎郊外の鳴滝(現,長崎市鳴滝)に2町歩余の土地と家屋を購入,診療所兼私塾を設けた。木造2階建のほか厨房・書庫・石倉などがあり,庭園にはシーボルトが日本各地で採集した薬草類が移植・栽培された。彼は出島から通って診療と臨床講義を行い,自然科学を教授した。ここで学んだ俊才は美馬順三・二宮敬作・高良斎(こうりょうさい)・高野長英・戸塚静海ら50余人に及び,多くは次代の科学文化発展の担い手となった。シーボルト宅跡は国史跡。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「鳴滝塾」の意味・わかりやすい解説

鳴滝塾
なるたきじゅく

オランダ商館付き医官 P.シーボルトが,出島の外に出ることを特に許されて文政7 (1824) 年長崎の鳴滝に開いた塾。この塾でシーボルトはオランダ語を教えるとともに医学,植物学を講じ,診療も行なった。ここで学んだ医学生のなかには高野長英戸塚静海伊東玄朴伊藤圭介ら,後世に名を残した蘭学者が多い。

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旺文社日本史事典 三訂版 「鳴滝塾」の解説

鳴滝塾
なるたきじゅく

江戸後期,オランダ商館医シーボルトが長崎郊外の鳴滝に開いた診療所兼私塾
1824年長崎奉行の許可を得て,診療とともに医学および自然学一般を教授。近代科学の理論と方法の直接指導という点で効果が大きく,全国から集まった門人57人中から高野長英・高良斎 (こうりようさい) ・伊東玄朴らの俊秀を輩出し,洋学の発展に貢献した。

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世界大百科事典(旧版)内の鳴滝塾の言及

【医者】より

…幕末の49年(嘉永2)オランダ商館医員モーニッケが本国から送られた痘苗を用いて牛痘接種を行い,天然痘の予防に成功するや,伊東玄朴は江戸神田のお玉ヶ池に種痘所を開いてその普及につとめている。この間の1823年(文政6)オランダ商館医員として赴任したシーボルトが,長崎に開いた鳴滝塾は,蘭方医進出の一大拠点となった。(4)近代医学の成立 幕末の58年(安政5)に西洋医学が解禁され,60年(万延1)に種痘所が公認されると,蘭方医の臨床評価は一段とたかまった。…

【シーボルト】より

…大学卒業後,1823年ジャワに渡り,同年(文政6)長崎に来航。出島の商館勤務のかたわら,許可を得て長崎郊外鳴滝に学塾兼診療所(鳴滝塾)を開設した。吉雄権之助らオランダ通詞をはじめ,美馬順三,高野長英,伊東玄朴,高良斎ら多数の日本人を蘭学者として育成,門人たちに課題を与えてオランダ語による論文を提出させた。…

※「鳴滝塾」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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