日本歴史地名大系 「羽根浦」の解説
羽根浦
はねうら
羽根村のうち浦方支配の
天正一七年(一五八九)の羽禰之村地検帳に番匠一〇人、水主・舟子六人、鍛冶一人が記され、おもに船場に居住しているが、尾僧にも若干の浦人の居住があった。この番匠は舟大工で、うち六人と鍛冶には給地が与えられていた。船場は船着場であったが造船場でもあったらしい。慶長八年(一六〇三)の東浦船頭水主帳では水主二〇、船大工九、鍛冶一、庄屋小使二、田作り百姓四、その他一三とある。
羽根の山地が用材の産地であったことは、明暦三年(一六五七)に江戸の土佐藩邸が焼失した時、羽根村庄屋が再建用材に良質の厚板の提供を申出たことによっても知られるが(「修史余録」平尾文庫蔵)、その木材を背景に造船業や廻船業が成立、羽根浦の発展があった。野中兼山失脚後に起きた上方への保佐木積出しブームは、羽根浦にも活況をもたらし、天和三年(一六八三)の浦々水主船数定書には漁船五に対し廻船・いさば三七とあり、うち三三艘は八反帆以上の大型船とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報