羽根村
はねむら
[現在地名]室戸市羽根町
吉良川村の北西、羽根川沿い一帯を占め、北東は野根山まで、北西は奈半利村の枝村加領郷村(現安芸郡奈半利町)までを村域とする。幅四・五キロ、長さ一四キロの長方形をなすが、集落は羽根川流域と海岸沿いの平地と砂丘・海岸段丘上などに散在する。村の西部、海岸沿いにある尾僧は安芸郡土居村(現安芸市)居住の家老五藤氏の知行地であったため、尾僧村として独立させる場合もある。
「土佐日記」承平五年(九三五)一月一一日条に「はねといふところにきぬ。わかきわらは、このところのなをきゝて、はねといふところは、とりのはねのやうにやあるといふ」とあり、また「ありけるをんなわらは」の歌として「まことにてなにきくところはねならばとぶがごとくにみやこへもがな」と記している。
延久二年(一〇七〇)七月八日付の金剛頂寺解案(東寺百合文書)に記される寺の四至のうちに「西限波禰中山」とあり、羽根岬北東の中山が当時の金剛頂寺領の西限であったことが知られる。この解案によると、永承四年(一〇四九)石清水八幡宮領奈半庄(現奈半利町)が成立以来、同庄の荘司はしきりに東方に進出、中山を越えて当地内坂本にまで及んだらしく、「恣抜捨件寺西坂本
示、猥押領」とある。羽根付近が奈半庄に併合されたという史料はないが、羽根の総鎮守が岩清水八幡宮(現羽根八幡宮)である点が気になる。なお土佐郡久万村(現高知市)の金性院蔵の鰐口銘(蠧簡集拾遺)に永享七年(一四三五)の年号とともに「土州八禰庄正法寺常住也」とあり、正法寺は天正一七年(一五八九)の羽禰之村地検帳では村内の天王崎之村に名がみえる。この銘文が八禰庄の名がみえる唯一の例であるが、同地検帳には古く荘官であったらしい有力者の名田などがあり、わずかにその痕跡がうかがわれるが詳細は不明。
羽根村
はねむら
[現在地名]婦中町羽根・新町西村
井田川支流の山田川の左岸に隣接、北側を呉羽山丘陵から流れる辺呂川が流れ、北は下村、南西は長沢村。「肯
泉達録」によれば、長沢村の開拓者とされる貞治古の第四子羽根治古が当村を開いたのでこのように名付けられたという。また当地は古墳とともに縄文土器の出土地で、ハネはハニウ(埴生)の訛りかと思われる(婦中町史)。各願寺背後の羽根山丘陵に勅使塚古墳(県指定史跡)・王塚古墳(国指定史跡)を中心とした羽根山古墳群があり、とくに勅使塚古墳は県内の前方後円墳のなかで最大級である(同書)。応永二〇年(一四一三)一二月一一日の越中国棟別銭免除在所注文(東寺百合文書)に「はねこかわこ」とあり、守護領とされて、京都東寺の造営棟別銭を免除されている。
羽根村
はねむら
[現在地名]河合村羽根
小鳥川左岸、東は鳥屋ヶ尾を境に有家林村、南対岸は新名村。村名は埴土の多いことから埴村といい、これが転訛したという。背後の山腹に古い崩壊地の痕跡らしいものがいくつかあり、後山が抜け出し、その土砂が小鳥川対岸まで跳飛んだ跡を開墾したための地名とも伝える。慶長一八年(一六一三)の飛騨国郷帳では、はね村とあり、小鷹利郷に属し、高三二石余。元禄五年(一六九二)の年貢割付帳(西森文書)では本高三二石余・古開高七七石余。元禄検地反歩帳では高四八石余、田三町一反余・畑六町一反余。元禄七年の検地請書(羽根区有文書)では家数一四、男五六・女四八、牛一五。
羽根村
はねむら
[現在地名]萩原町羽根
跡津村の北、飛騨川西岸にある。川沿いに川西街道が通る。西方馬瀬郷(現馬瀬村)へは鈴越峠を越える道があった。宮谷神明宮などのある高台には草分百姓の住居があり、羽根八軒と通称される。慶長一〇年(一六〇五)の飛騨国郷帳では萩原郷中井村と一括され、同一八年の郷帳では中江郷として村名がみえ、高二四四石余。元禄八年(一六九五)の検地帳(都筑文書)では中呂郷に属し、高三四三石余、田九町九反余・畑三一町九反余、家数三七。安永二年(一七七三)の地改・新田検地帳(同文書)では地改分五三石余・五町余、新開分八石余・二町余が増加している。
羽根村
はねむら
[現在地名]上野市羽根
高畑村の西。南部を服部川が流れる。条里の開発で成立した村と思われ、当村地籍の一番地は貴船の東北端にあるが、その北に印代村の筋界・木舟などがあり、その辺りが古代国府の所在地と推定される。貴船社の森は恋森ともよばれたが(三国地志)、国府の森の転訛で、印代村東北の国府の湊(後に恋の湊ともいう)との関係も考えられる(→印代村)。
羽根村
はねむら
[現在地名]斐川町三絡
出雲平野南側にある村で、波根・波如とも記される。北西は吉成村、北は上庄原村、南東は武部村。村中央には南北に平坦地があり、東と西は丘陵。日向国の宮地伊波禰より天津彦火火瓊瓊杵尊を勧請し、のちに伊の字を略して波禰と称し、神亀三年(七二六)羽根と改称したという(神国島根)。文政七年(一八二四)の有高輪切帳写(県立図書館蔵)に記載された輪は上輪・蛭田輪・岡輪。
羽根村
はねむら
[現在地名]岡崎市羽根町
岡崎城下の南に位置し、蒲郡道に沿って明大寺村・戸崎村を経て羽根村に至る。「三河国二葉松」に「羽根村古城二ケ所、大久保七郎右衛門、同甚四郎」とあり、また「三河堤」に大久保七郎右衛門・同甚四郎・羽根田半右衛門の名があり、大久保・羽根田などの在地有力武士が居住していた。「三河聡視録」によると、天文九年(一五四〇)尾張の織田信秀が兵を出して安祥城(現安城市)を攻めた時、松平忠次が安祥城主を助けて奮戦し、その功績によって忠次は伊田(井田)と羽根の地を賜ったという。
羽根村
はねむら
[現在地名]秦野市羽根
丹沢山中の菜の花台の南にある。東を扇沢が南に、西を葛葉川が北から南東に流れる。南は曾屋村、東は西田原村、西は菩提村に接する。天文三年(一五三四)九月二三日の栄永(大藤信基)等寄進状写(県史三)には「北波多野之内、羽根村百姓前之分、夏秋十五貫文」が、西田原香雲寺の前身春窓院へ寄進されている。
近世は初め幕府直轄領、元禄一一年(一六九八)六浦藩領。
羽根村
はねむら
[現在地名]能都町羽根
珠洲郡に属し、西は鳳至郡宇出津山分村。南は内浦に臨む。羽祢とも記される。永正一五年(一五一八)三月に能登を旅した冷泉為広の「能州下向日記」に「ハネ」の地名がみえる。戦国後期頃の能登内浦村々給人注文写(諸橋文書)では「羽祢」は誉田氏の知行であった。天正一〇年(一五八二)五月一五日には、前田利家が上杉方の長景連らの棚木籠城に対し、「はね」の浦舟を集めて敵船を狩出すように、真柄助三郎・今村藤次郎らに命じている(「前田利家書状」中谷文書)。
羽根村
はねむら
[現在地名]青山町羽根
阿保村の西に位置し、村の東部を北西流する前深瀬川が集落西部で、また西端を北流する三谷川が集落西方でそれぞれ阿保川(木津川)と合流する。天喜四年(一〇五六)二月二三日付藤原実遠所領譲状案(東南院文書)に記す中津阿保村の四至中「限西三谷口」は三谷川辺りをさすと考えられ、当村の大部分は古代の中津阿保村に含まれていた。
享保一二年(一七二七)改めによれば、本高九八〇・三石、平高一〇一六・四石。
羽根村
はねむら
[現在地名]南濃町羽沢
馬沢村の東、津屋川右岸にある。弘治二年(一五五六)九月二〇日の斎藤高政安堵状(東高木文書)に羽根郷とみえ、高木貞久は同郷など六郷を高政(義龍)より安堵されている。以後高木氏は織田信長・信雄に仕え、天正一四年(一五八六)七月二三日、高木貞俊は信雄より羽禰郷二八八貫三六〇文などを宛行われている(織田信雄知行宛行状「濃飛両国通史」所引高木文書)。
羽根村
はねむら
[現在地名]坂内村広瀬
坂本村の北西、坂内川の左岸にある。西の西村、北の北村を併せ古くはこの三ヵ村を広瀬郷と称したらしく、近世初頭には広瀬村と把握され、その後も広域通称などとして広瀬の呼称は存続した。坂本の五社神社文書(揖斐郡志)に天正三年(一五七五)正月小島庄広瀬郷とみえ、中世は小島庄として推移したか。慶長郷帳に広瀬村とあり、高四一四石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では松平忠良(大垣藩)領になっている。正保郷帳では前記三村に分れ、広瀬村は記されない。なおこの村高の合計からすれば、慶長郷帳の高は川上村の分を含むものであった可能性があるが未詳。
羽根村
はねむら
[現在地名]富山市羽根
高田村の南東に位置し、東は有沢村。慶長九年(一六〇四)一〇月二五日の野開許可状(越中古文書所収太田家文書)に婦負郡「はね村」とみえ、前田利長により轡田村・塚原村・鵜坂村(現婦中町)に当村を含めた四ヵ村野のうちに、新村を立てることが許され、翌一〇年検地を行うとされた。この新村とは羽根新村(現婦中町)のことと推定される。寛永一六年(一六三九)以降富山藩領となり、正保郷帳では新川郡に属し、高五四五石余、田方一八町二反余・畑方一八町余、新田高四一石余。
羽根村
はねむら
[現在地名]知多市金沢・大興寺
東に丘陵があるほかは平坦地の小村。北は松原村、東・南は北粕谷村に接する。飛地が北粕谷村・大興寺村にある。「寛文覚書」によれば、概高四二二石余、田二五町二反八畝余・畑一四町二反二畝余、家数九〇、人数四六四。源敬様御黒印写(徳川林政史蔵)によれば、元和六年(一六二〇)の給人は竹屋清十郎一二七石余、大道寺玄蕃頭一二七石余であった。
「雑志」は瓦を特産とし、調宝記(久野家蔵)によれば、従来からの瓦焼職人は、増加する新興の瓦焼人に対して、寛政元年(一七八九)に「恐多御願ニ御坐候ヘ共、何卒職札御渡シ被下、当郡瓦師十三株之外、已来新規ニ職立候儀、御差留被成下候様奉願上候」と知多郡の瓦師を一三名に限るよう願出て、そのなかに当村の惣八の名がある。
羽根村
はねむら
[現在地名]一宮市千秋町浅野羽根
村の南境を青木川、西境を新般若井が流れ、本郷と更屋敷の二区に分れていた(天保村絵図)。天正末は織田信雄の家臣揖斐与右衛門の知行地があった(織田信雄分限帳)。概高七九六石余で、七五九石余は藩士一七人の給知。田一三町三反二畝余・畑四五町七反二畝余。
羽根村
はねむら
[現在地名]成羽町羽根
高原上に集落が散在し、山続きで北は宇治村(現高梁市)、東は羽山村、南は小泉村、西は長地村。寛永備中国絵図に村名がみえ、高七一石余、山崎家治先知とある。正保郷帳では幕府領、枝村として柴原村が載る。万治元年(一六五八)以降旗本山崎領に編入され幕末に至る。延享三年(一七四六)の成羽陣屋覚書(妹尾文書)によると高七三石余・反別一二町八反余。
羽根村
はねむら
[現在地名]香々地町羽根
香々地村の南西方に位置し、北西は周防灘に面し、国東道が通る。中世は香々地庄のうちとしてみえる。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、夷忠兵衛手永の御蔵納分として高一二九石余、家数二二のうち本百姓・小百姓九、隠居・名子・牛屋一一、御杣一など、男二七(うち名子二)・女二二、牛八となっている。加子分として高八二石余とあり、家数二二のうち本百姓・小百姓七、隠居・名子・牛屋一五、男二二のうち名子三・女一七、牛八。また別に給人真野兵左衛門尉の知行分として高一五一石余が記され、家数二九のうち本百姓・小百姓一三、隠居・名子・牛屋一六、男三四(うち名子二)・女二九、牛八・馬一。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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