能代町
のしろまち
能代湊を中心に中世末期から発達した町で、現在の能代市の中心部。米代川舟運と日本海海運を結び、町は主として米代川南岸に発達した。
〔町の成立〕
弘治二年(一五五六)清水治郎兵衛政吉が姥が懐から移って能代を開いた。それ以前は明確でないが、野代山王社由来記に、昔は人家五〇軒ばかりの米代村が弁才山の東北にあり、その後、川欠け・飛砂などの被害にあって大永―享禄(一五二一―三二)頃に日和山(現下浜付近)の北麓、姥が懐に移住し、さらに弘治年中人家一〇〇余が姥が懐から東の野中に移住し、大町・上町を開いたとある。弁才山は能代浜より西にあって海中に没したという(能代市史稿)。「秋田伝記能代故実」(伊頭園茶話)には、秋田城之介の時代に大森山の西南二里に人家があり、それは沖口番所の西南にあたるとしている。秋田城之介を檜山安東氏のことと解すれば、一五世紀半ば以降になる。二つの史料を併せると、「旧能代」(秋田伝記能代故実)は一五世紀の後半から成立、一六世紀前半に姥が懐に移住し、弘治二年に大町・上町辺りに移住したことになる。これに対し「六郡郡邑記」は「能代古来之儀は(中略)永禄年中以前は川向小立塙辺に有由、永禄年中旧野代より此処え移申之由八幡別当縁起有之」としている。
享保八年(一七二三)の町々覚(代邑聞見録)によると「建年不知、疑らくは弘治年中ならん」として大町・上町・下川反町・後町・万町・中町の六町をあげている。大町・上町が弘治二年の成立であり、米代川に沿って東西に連なる立地からみても、これが能代町の最初の形と考えられる。ついで永禄年中(一五五八―七〇)には清助町が成立する。
次いで佐竹氏時代に入り、承応年間(一六五二―五五)に上川反町が成立、寛文年間(一六六一―七三)に初立(羽立)町・馬口労町・稲荷町・新町・鍛冶町が成立する。この期の特徴は、弘治―永禄期に米代川に沿って東西に発達した町が上川反町と後町の二地点から南に内陸部へ延びる形で発達したことである。延宝期(一六七三―八一)には上町から南へ畑町が成立し、出戸町も成立した。貞享期(一六八四―八八)には畑町と新町を結ぶ柳町が成立。元禄期(一六八八―一七〇四)に富町・幸町・新御足軽町が成立、町の東側が発達した。羽立町南側の御足軽町は「建年不知」であるが、佐竹氏移封直後から能代を支配した中田彦太夫は足軽二〇名を配下に置いていたから(窪田配分帳)、承応年間には成立したと思われる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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