日本歴史地名大系 「能代湊」の解説
能代湊
のしろみなと
県北部を東西に横断して日本海に注ぐ米代川の河口港。明治三八年(一九〇五)奥羽本線が開通するまでは、木材・鉱産物・米の移出港として栄えた。
古代の能代湊の位置は不明であるが、「秋田風土記」は、
弘治二年(一五五六)能代町の形成が始まるが、その前後の能代浜は砂浜が現在より海中に延びていたようである。野代山王社由来記には「昔米代村と唱へし時、人屋五十軒、弁才山の東北の麓に住せしが」とあり、「秋田伝記能代故実」(伊頭園茶話)には「今之能代之南に大盛り山より西南二里に人家住居(中略)能代浜ハ其ノ先青柳浜ト申処ニ、御当家御入部以後、処之者其名忘失候而砂崎浜と被仰れ候。以後砂崎浜と申候。昔ハ柳雑木茂り候。追年伐減砂飛候而砂崎ニハ成り候事」とある。そして「代邑聞見録」に「延宝年中迄は、沖口御番所より水戸口迄凡一里もあらんと覚えし。弁才山、愛宕山、大森山並立風景もありしに年々海近成、今は御番所より十丁斗もあらんと見ゆ。弁才、愛宕両山跡かたなく、大森山も纔に形斗に成ぬ」とある。延宝(一六七三―八一)頃までに砂浜が後退していることを示している。
〔施設〕
能代湊の船着場は米代川を遡行した
港の施設で最も早く設置されたのは御材木場であろう。弘治二年(一五五六)清水政吉が安東愛季から材木方に任ぜられて以来、文禄―慶長期(一五九二―一六一五)に豊臣秀吉の命による伏見作事板、さらに慶長―元和(一五九六―一六二四)にかけての家康の命による軍役板などが大量に移出され、川上から流される材木を船積みするまで一時滞留させる材木場は必須の施設であった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報