脇郷(読み)ひわきごう

日本歴史地名大系 「脇郷」の解説

脇郷
ひわきごう

薩摩郡の中央南部に位置する鹿児島藩の外城。東は伊佐郡山崎やまさき(現宮之城町)入来いりき郷、南東は日置郡郡山こおりやま郷、西は北からとう白浜しらはま(現川内市)平佐ひらさ郷・山田やまだ郷・百次ももつぎ(現同上)、南西は日置郡串木野郷、南は市来いちき郷、北は川内せんだい川を挟み東郷斧淵おのぶち村・南瀬のうぜ(現東郷町)。万治二年(一六五九)清敷きよしきが二郷に分れて成立し、塔之原とうのはら村・市比野いちひの村・倉野くらの村、久住くじゆう村・楠元くすもと村・なか(現川内市)の六ヵ村からなる。鎌倉時代中期に関東の渋谷一族が川内川流域を中心とした薩摩郡一帯の地頭として入部して以来、当地域は渋谷入来院氏の本貫の領地(入来院)として領有された。元亀元年(一五七〇)一族の東郷氏などとともに島津氏に服すると、清敷(旧入来院の大半)の地のみが改めて入来院重嗣に安堵され、領地の大半(宮里・隈之城などを除く)は島津氏直轄領とされた(島津国史・入来町誌)

文禄検地後の知行配当によって入来院重時が大隅国湯之尾ゆのお(現菱刈町)に移されると、大口の新納忠元が地頭として入り、次いで川上忠兄・平田増宗らが地頭となった。この間、清敷のうち塔之原村は新しく川内・答院けどういん地方の領主として日向国都城から入ってきた北郷三久(宮之城領主北郷時久の子、平佐北郷氏)が領有した(入来町誌)。慶長一八年(一六一三)入来院重高は清敷に復封したが、同地には鹿児島藩直轄領時代の地頭配下の島津氏直臣団(衆中)が多数残留していて、復帰してきた入来院氏家臣団(一所衆・家中士)との紛争が絶えなかった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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