脇町(読み)ワキマチ

デジタル大辞泉 「脇町」の意味・読み・例文・類語

わきまち【脇町】

徳島県美馬みま市の地名。吉野川北岸に位置し、江戸時代より藍の集散地として発達。うだつ(袖壁)を備えた歴史的建造物の並ぶ一画は、国の重要伝統的建造物保存地区に指定されている。

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日本歴史地名大系 「脇町」の解説

脇町
わきまち

[現在地名]脇町脇町など

吉野川の左岸に位置し、撫養むや街道が横断する。南は同川を隔てて舞中島まいなかしま(現穴吹町)、東は猪尻いのしり村、北は岩倉いわくら山、西は岩倉村みなみ町・なか町・北町・ほん町・大工だいく町・茶の子ちやのこ町などの町々があり、近世には吉野川中流域の中枢的な郷町として繁栄した。南町は最も繁華な町で、大谷おおたに川を渡って西に進む撫養街道に沿い、その北に中町、さらにその北に北町と東西筋の町が並行していた。本町は南北筋の町で、南町西端で北に折れる撫養街道に沿い、戦国期に開かれた最初の町と伝える。その北に同じく南北筋の大工町が続くが(東林寺前まで)、撫養街道は本町・大工町境の島口しまぐちで西に折れて岩倉村に向かった。のちに南町の東部から大谷川まで南東方に延びる小路が開かれ、茶の子町(裏町)となった。地内に脇城跡がある。同城は岩倉城の東脇に築かれたのでその名があると伝え、地名もこれに由来すると考えられる。なお近世の郷村帳類では脇村として高付される場合もあった。

当地の町場は戦国期に脇城の城下として形成されたと考えられる。文化五年(一八〇八)に当町年寄の脇康左衛門が記した脇町成行之記録(脇家文書)によると、三好長慶が脇城を築いて城代を置いたとき(ただしこれは脇城の築城ではなく修築と考えられる)、長慶は「軍勢舎」として町並を整え、町屋敷の年貢・諸役を免除して町人の集住を図り、また町年寄八人を任じ、御目見得を許したという。弘治二年(一五五六)脇城に入った武田信顕も長慶の商人優遇策を踏襲するが、天正年中(一五七三―九二)土佐の長宗我部元親勢の侵攻によって脇城が落ちた際、町屋も焼払われたという。天正一三年阿波に入国した蜂須賀家政は脇城をいわゆる阿波の九城の一として取立て、稲田稙元を城代に置いた。稙元は地子・諸役免除の立札を立て、焼跡には「町並四間に三拾間の長家」を建置いて広く町人の居住を募ったため、離散していた旧町人や所々の町人が集まり、町場はおいおい賑いを取戻したという。三日・七日の六斎市も始まり、市日には阿波国内はもちろんのこと、讃岐・伊予や備前からも商人が集まる盛況ぶりであった。町年寄(六人、御目見得)・五人組(一二人、脇差御免)を町役人に任じ、市の運営などにあたらせたという(前掲成行之記録)。慶長二年(一五九七)の分限帳では稲田小八郎(示稙)知行分のうちに脇村高二八六石余がみえる。


脇町
わきまち

面積:一一一・〇九平方キロ

郡の北東部、吉野川の左岸に位置する。同川を隔てて南は穴吹あなぶき町、西は美馬町、北は讃岐山脈の山並を境に香川県香川郡塩江しおのえ町・木田きた三木みき町・大川おおかわ長尾ながお町、東は阿波郡阿波町で、北東部は一部同郡市場いちば町と接する。町域は北部の山間部、その南の山麓部の洪積台地、さらに最南端の吉野川平野部からなる。町の東部を先行川の曾江谷そえだに川、西端を涸れ川の野村谷のむらだに川が南流し、いずれも吉野川に注いでいる。吉野川沿いに県道鳴門―池田いけだ(旧撫養街道)、その北側に並行して四国縦貫自動車道が東西に走り、同自動車道の脇町インターチェンジがある。また穴吹町で国道一九二号から北に分岐し、吉野川を渡って当町に入り、拝原はいばら地区で県道鳴門―池田線と交差、曾江谷川沿いに北上して高松市に至る国道一九三号が走るなど、交通の要衝となっている。

旧石器時代の遺跡には後期のナイフ形石器が出土した小星こぼし遺跡・井口東いぐちひがし遺跡がある。弥生時代では中期の竪穴住居跡がみつかった東城山ひがししろやま遺跡や西城山遺跡、井口東遺跡・小星遺跡、同後期の大屋敷おおやしき遺跡・別所べつしよ遺跡などがある。また古い段階の銅鐸とされる伝江原出土小銅鐸(現東京国立博物館蔵)や脇町出土銅鐸などが知られる。古墳は後期の円墳が多く存在し、北原きたはら古墳・中拝原古墳・東拝原古墳・国中くになか古墳・油免あぶらめん古墳群・野村八幡のむらはちまん古墳・野村古墳などが現存する。拝原遺跡では古墳時代から中世・近世にかけての集落跡が発見され、鎌倉時代の集落遺構であるはら遺跡などもある。


脇町
ひわきちよう

面積:六四・一八平方キロ

薩摩郡の南西部に位置。東は火山性の台地や丘陵で入来いりき町、西は川内せんだい市、南から南西部は八重やえ(ハエヤマとも)からかんむり岳に至る峰々の山麓・台地上で東から日置郡郡山こおりやま町・東市来ひがしいちき町および串木野市、北は川内川を隔てて東郷とうごう町と宮之城みやのじよう町。八重山・冠岳山系に源を発する入来川や市比野いちひの川および両川が合流してできる樋脇川の流域低平部を中心に沖積平野や平地が広がるが、上流部の南から南西部一帯にかけては多くが山林・原野によって占められている。当町では三七ヵ所の遺跡(歴史時代も含む)が知られていたが、平成四年(一九九二)の北薩・伊佐地区埋蔵文化財分布調査で五八ヵ所が追加された。ただし本格的な発掘調査が実施された遺跡はほとんどない。旧石器時代の遺跡では沢牟田さわむた遺跡などがわずかに知られていたが、分布調査によって五ヵ所以上の遺跡が確認された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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