吉野川の左岸に位置し、
当地の町場は戦国期に脇城の城下として形成されたと考えられる。文化五年(一八〇八)に当町年寄の脇康左衛門が記した脇町成行之記録(脇家文書)によると、三好長慶が脇城を築いて城代を置いたとき(ただしこれは脇城の築城ではなく修築と考えられる)、長慶は「軍勢舎」として町並を整え、町屋敷の年貢・諸役を免除して町人の集住を図り、また町年寄八人を任じ、御目見得を許したという。弘治二年(一五五六)脇城に入った武田信顕も長慶の商人優遇策を踏襲するが、天正年中(一五七三―九二)土佐の長宗我部元親勢の侵攻によって脇城が落ちた際、町屋も焼払われたという。天正一三年阿波に入国した蜂須賀家政は脇城をいわゆる阿波の九城の一として取立て、稲田稙元を城代に置いた。稙元は地子・諸役免除の立札を立て、焼跡には「町並四間に三拾間の長家」を建置いて広く町人の居住を募ったため、離散していた旧町人や所々の町人が集まり、町場はおいおい賑いを取戻したという。三日・七日の六斎市も始まり、市日には阿波国内はもちろんのこと、讃岐・伊予や備前からも商人が集まる盛況ぶりであった。町年寄(六人、御目見得)・五人組(一二人、脇差御免)を町役人に任じ、市の運営などにあたらせたという(前掲成行之記録)。慶長二年(一五九七)の分限帳では稲田小八郎(示稙)知行分のうちに脇村高二八六石余がみえる。
郡の北東部、吉野川の左岸に位置する。同川を隔てて南は
旧石器時代の遺跡には後期のナイフ形石器が出土した
薩摩郡の南西部に位置。東は火山性の台地や丘陵で
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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