改訂新版 世界大百科事典 「自由タイ」の意味・わかりやすい解説
自由タイ (じゆうタイ)
Serithai
第2次世界大戦期,国内外のタイ人により展開された抗日運動の地下組織の総称。1941年12月ピブン政府は日本軍の圧力に抗しきれず,進駐を認めたうえ,攻守同盟を結んだが,摂政プリディと反政府団体〈救国〉の指導者チャムカットなどのプリディ支持者たちは〈X.O.グループ〉をひそかに組織し,抗日・反政府運動に着手した。また,当時の駐米大使セーニーは,本国政府の訓令を無視し,アメリカ政府への宣戦布告書の交付をタイ国民の真意にあらずと拒否した。そして,在米タイ人に呼びかけて抗日組織〈自由タイ〉を結成するとともに,アメリカ政府の援助を取り付けた。イギリスにおいても同様の動きがタイ人留学生を中心に生まれた。イギリス政府は当初冷淡な反応を示したが,志願兵をインドに送りゲリラ訓練を施すなど,協力に踏み切った。この米英両政府の協力の裏には情報収集の目的があり,アメリカ戦略局(OSS)およびイギリス特務工作機関(SOE)がおのおの担当した。内外の運動が次第に一体化し,兵員や武器が送り込まれ,タイ各地で基地建設が進んだ。43年になると,日本の敗戦を確信したピブンも自由タイ運動に暗黙の了解を与えた。翌年8月に首相に就任したクウォンは自由タイの重要メンバーで,日本軍に友好的態度を示しながら,裏でプリディに協力した。運動は主として軍,警察,行政組織を通じて全国の各層に拡大し,ゲリラ兵は約3万6000人に達した。日本側もこの動きを察知していたが,混乱を恐れ強硬手段をとれなかった。45年に入ると蜂起作戦が準備されたが,連合軍からの許可がおりないままに終戦を迎えた。この運動が戦後の対連合国交渉を有利にし,タイの国際的地位の回復を容易にした。45年9月自由タイは解散したが,プリディを中心に政治勢力〈自由タイ派〉を形成し,戦後政治をリードした。一般に組織的・集団的行動が不得手といわれるタイ人がみせた全国規模のみごとな国民運動であった。
執筆者:赤木 攻
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報