舟岡村
ふなおかむら
[現在地名]柴田町船岡・船岡土手内・船岡東・船岡中央・船岡西・船岡南
郡最南端にあり、北辺を白石川が大きく蛇行しながら東流する。北は舟迫村など、東は上名生村、南は伊具郡君萱村(現角田市)、西は大谷村(現大河原町)。西方には標高一三六メートルの四保山(または「しのお」、館山)があり、舟岡要害が配された。近世、中心域は同要害の館下町として栄え、舟岡町とも称された。また交通の要地でもあり、宿場の機能も有していた。
中世まで舟岡は四保と称したという(安永風土記)。元亨四年(一三二四)六月一九日、留守家明は娘四保女子に余部村(現仙台市)などの田・在家を譲っているが、この四保女子とは、柴田郡の地頭四保氏に嫁した女性と推定されている(「同譲状」留守文書)。また「廻国雑記」の文明一九年(一四八七)の条に「しほの山といふ所は山中にて侍る。是より海辺へは十里計侍となん」とあるのは、当地とも推定される。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「仁十五〆文 しのほ」とみえる。当村に住した四保氏はもと結城の庶流と伝え、天文の乱においては伊達晴宗方につき、天文一三年一月二四日、四保宗義は本地を安堵されたうえ、入間野など五ヵ所を与えられている(伊達正統世次考)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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