舟橋秀賢(読み)ふなはしひでかた

改訂新版 世界大百科事典 「舟橋秀賢」の意味・わかりやすい解説

舟橋秀賢 (ふなはしひでかた)
生没年:1575-1614(天正3-慶長19)

江戸初期の公卿明経博士。清原夏野27世。父は大蔵卿国賢。宣賢の玄孫。1584年蔵人左近将監,88年式部大丞,1601年舟橋改姓,02年明経博士,04年従五位下式部少輔,以後従四位上に至り,後陽成,後水尾天皇侍読を務めた。儒学旧注の伝統を維持し,その日記《慶長日件録》は近世初期研究の重要な史料である。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「舟橋秀賢」の解説

舟橋秀賢 ふなはし-ひでかた

1575-1614 織豊-江戸時代前期の公家(くげ)。
天正(てんしょう)3年生まれ。清原国賢(くにかた)の子。明経(みょうぎょう)道を家業とする清原氏嫡流で,秀賢の代から家名を舟橋とした。明経博士兼式部少輔(しょう),従四位上。後陽成天皇,後水尾(ごみずのお)天皇の侍読をつとめ,活字印刷の技術に通じた。慶長19年6月28日死去。40歳。日記に「慶長日件録」。

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世界大百科事典(旧版)内の舟橋秀賢の言及

【慶長日件録】より

舟橋秀賢の日記。近世初期の宮廷内の行事,公家社会の漢学講習の状況,政権移動期の公武の人々の動き,京都の町の状況などを知る好史料である。…

【舟橋家】より

…清原氏の嫡流。船橋とも書く。初め高倉と称したが,大蔵卿清原国賢の子である式部少輔秀賢のときに,左大臣近衛信尹の推挙によって堂上を勅許され,以来舟橋と称するようになった。家格は半家。明経道の家柄で代々儒道を家業とし,当主は明経博士となり,主水正,少納言,侍従を経て非参議に進むのを例とした。江戸時代には家禄400石を給された。秀賢は学才があり,徳川家康の命を受けて古書の収集に努め,また後陽成・後水尾両天皇の侍読を務めた。…

※「舟橋秀賢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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