舟迫村
ふなばさまむら
[現在地名]柴田町
西船迫・
本船迫・
北船岡 南辺を大きく蛇行しながら東流する白石川の左岸にあり、集落は北方丘陵の麓に散在する。南は舟岡村、西は沼辺村(現村田町)。白石川沿いに奥州街道が通り、舟迫宿があった。「吾妻鏡」文治五年(一一八九)八月一一日条に「船迫宿」とみえ、前日阿津賀志山(現福島県伊達郡国見町)の陣を破った源頼朝はこの日船迫宿に逗留、平泉方の敗将、西木戸国衡の首が献じられた。観応二年(一三五一)、南北朝の争乱のなかで、南朝方の北畠顕信配下の伊達氏八代宗遠らと、北朝方の吉良貞家配下の相馬親胤らが「柴田郡倉本河」で戦っている(同三年一一月二二日「吉良貞家挙状」相馬文書)。この戦いは同二年一〇月二五日の吉良貞家書下写(同文書)では「船迫合戦」とある。「大日本地名辞書」は倉本河を現在の白石川、攻防の地は北朝方の拠点、舟岡の柴田(四保)館であるとし、同館を攻めた南朝方が白石川の北岸、舟迫に布陣したことで、船迫合戦と称されたとする。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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