日本歴史地名大系 「般若野庄」の解説
般若野庄
はんにやののしよう
かつて般若野とよばれた地域にあった庄園。「吾妻鏡」文治二年(一一八六)六月一七日条によると、内大臣徳大寺実定から家領である越中国般若野庄における比企朝宗の押妨、年貢抑留などの停止の訴えが梶原朝景を通じて源頼朝に出されている。徳大寺家領般若野庄の成立時期は不明だが、大治元年(一一二六)二月より同四年一二月まで徳大寺公能が新院(鳥羽院)分として越中守に任ぜられ(「公卿補任」など)、その父で鳥羽院中宮待賢門院璋子の兄である実能が実質的な知行者であったことから(「中右記」大治二年一一月一五日条)、この間に徳大寺家領となったと考えられる。ただし開発は古代にさかのぼり、奈良東大寺領
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報