般若野庄(読み)はんにやののしよう

日本歴史地名大系 「般若野庄」の解説

般若野庄
はんにやののしよう

かつて般若野とよばれた地域にあった庄園。「吾妻鏡」文治二年(一一八六)六月一七日条によると、内大臣徳大寺実定から家領である越中国般若野庄における比企朝宗の押妨、年貢抑留などの停止の訴えが梶原朝景を通じて源頼朝に出されている。徳大寺家領般若野庄の成立時期は不明だが、大治元年(一一二六)二月より同四年一二月まで徳大寺公能が新院(鳥羽院)分として越中守に任ぜられ(「公卿補任」など)、その父で鳥羽院中宮待賢門院璋子の兄である実能が実質的な知行者であったことから(「中右記」大治二年一一月一五日条)、この間に徳大寺家領となったと考えられる。ただし開発は古代にさかのぼり、奈良東大寺領伊加流伎いかるぎ石粟いしあわの二庄を庄域内に含み、さらに南部は井山いやま庄にかかっていたとみられる(砺波市史)。庄域は現砺波市の庄東しようとう庄西しようせい両地区、つまり庄川の東西にまたがり、南限は庄川町三谷みたに辺り、北限は高岡市中田なかだ地区の常国つねくに麻生あそう辺りに及ぶようである。庄川は天正一三年(一五八五)一一月の大地震によりほぼ現流路近くを流れることとなったが、それ以前はいくつかに分流して西へ流れ、現小矢部おやべ川に注いでいた。したがって般若野庄は庄東山地から流下する谷内やち川の水利によっていたらしい。ただし中世の谷内川の流路も現在とは異なり、現庄川の川筋を越えて西に流れ、太田おおたの南を西流した後に北進して現在のどう川につながり、秋元あきもとの北でやや東に流路をとり、和田わだ川から続く旧東神楽ひがしかぐら川の流れとなって放生津ほうじようづ潟へ注いでいたとみられる(砺波市史)。安永七年(一七七八)の中田組十村伊左衛門覚帳(八田家文書)に、谷内川より西は庄下しようげ郷、東は般若郷と称されているとあるのはその名残であろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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