芝尾村(読み)しばおむら

日本歴史地名大系 「芝尾村」の解説

芝尾村
しばおむら

[現在地名]臼杵市諏訪すわ 芝尾・芋地いもじ

平岡ひらおか村の西、熊崎くまさき川下流左岸に位置する。参宮帳写(後藤作四郎文書)によれば、天正一六年(一五八八)九月一〇日「臼杵庄しばお」の臼杵右京進の代参として長助が伊勢神宮に参詣している。慶長二年(一五九七)の臼杵庄検地帳写(渡辺家文書)に村名がみえ高一六四石余、うち田方一〇九石余・畑方五四石余、村位は上。同一一年の惣御高頭御帳では田井村組に属し同高で、稲葉通孝領であった。

芝尾村
しばおむら

[現在地名]野津町老松おいまつ 芝尾

桐木きりぎ村の東にある。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には柴尾村と桐木村など四ヵ村分が一括された一冊が含まれ、村位は中。同一一年の惣御高頭御帳に芝尾村とみえ、高五四石余。香野村組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば田方二四石余・畑方三〇石余。正保郷帳では野津之院に属し、高二二三石余(田方九二石余・畑方一三〇石余)のうちには桐木名塚なづか田良原たらわらの各村分が含まれる。

芝尾村
しばおむら

[現在地名]鴨川市だい

代野だいの村の西、曾呂そろ川の中流域にあり、嶺岡東みねおかひがし牧の南側に位置していた。西は中居なかい村。江戸時代初期は曾呂村の一部であった。元和四年(一六一八)の検地時には中居村に含まれており、寛永一九年(一六四二)に分村したと伝えるが(寛政元年「村明細帳」代区有文書)、正保郷帳には記載がない。元禄郷帳に芝尾村とみえ、高五〇石。元文村高帳では台野だいの(代野)村に含まれており、同村のうち芝尾村五〇石は幕府領となっている。天明五年(一七八五)の代野芝尾両村村高等書上帳(代区有文書)でも幕府領で、高五〇石の反別は田方二町七反余・畑方三反余、定免で米一四石余・永三五七文余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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