中居村
なかいむら
[現在地名]嬬恋村三原
赤羽根村の西南、吾妻川の上流左岸にある。平安末期に信州滋野一族の下屋将監幸房が当地に居館を構え、一族が各地に分れて開拓の草分になったと伝える。鎌原氏・西窪氏・羽尾氏などは幸房の子孫という(加沢記)。下屋家は貞治元年(一三六二)一〇月三日の萩原賢秀先達譲状案など多くの文書を伝来する。これらの文書には当地一帯の地名が記され、修験者としての下屋家の活躍がうかがわれる。応永二〇年(一四一三)七月二五日の薩摩聖心旦那譲状に「兵部僧あとのたんな下屋そうりやうしゆけんちやくし出羽守しやうけい、同大まや殿(中略)中屋殿御一門御一家」とみえ、「中屋殿」は当地の一族と考えられる。
中居村
なかいむら
[現在地名]飯能市中居
青木村の西に位置し、北は宮沢村。村内を上州と相州を結ぶ往還が通る。加治領に属した(風土記稿)。田園簿に中井村とみえ、高は田方一五石余・畑方二四石余、幕府領。寛文八年(一六六八)に検地があった(風土記稿)。国立史料館本元禄郷帳では旗本山田領、ほかに宝蔵寺・慶雲寺・清泰寺の三寺領がある。「風土記稿」によると化政期も旗本山田領。四町九反余と一町余の持添新田は延享元年(一七四四)に検地高入れされ、いずれも幕府領。家数一六。幕末の改革組合取調書でも旗本山田領。清泰寺は真言宗智山派、宝蔵寺は曹洞宗。慶雲寺は化政期には廃絶していた(風土記稿)。宝蔵寺の開基は加治新左衛門尉貞継、中興開基は関東管領上杉憲忠の重臣で武蔵目代大石重仲と伝える。
中居村
なかいむら
[現在地名]鳩ヶ谷市南二―三丁目・同六―七丁目・八幡木
小淵村の南に位置し、平坦な村。西側を日光御成道が南北に通り、北側を千住(現東京都足立区)へ至る道が東西に通る(「村絵図」矢作家蔵)。元亀三年(一五七二)一月九日北条氏政は宮城四郎兵衛尉泰業に小淵のうち中居の一三貫文の所領などを安堵している(「北条家印判状」豊島宮城文書)。田園簿によると田二九三石余・畑七四石余。江戸時代を通じて幕府領であったと思われる(同書・改革組合取調書など)。元禄一〇年(一六九七)の検地帳(矢作家文書)によると高四二一石余、うち田二八四石余・畑屋敷一三六石余、反別田四六町六反余・畑屋敷二一町六反余。
中居村
なかいむら
[現在地名]鴨川市仲町
上野村の東、曾呂川の中流域にあり、嶺岡東上牧の南側に位置していた。江戸時代初期は曾呂村の一部に属していた。正保郷帳に村名がみえ、高二〇七石余、うち田方一四一石余・畑方六五石余、旗本内藤領。元禄郷帳では高一七六石余で、以後村高に変化はない。元文村高帳では幕府領。延享四年(一七四七)に旗本小笠原領となり、房陽郡郷考では幕府領とあるが、幕末まで小笠原氏が支配したと思われる(旧高旧領取調帳など)。「嶺岡五牧鏡」によると野馬捕場があり、享保一二年(一七二七)捕場から川代村の牧との境まで長さ一五〇間の仕切土手が築かれている。
中居村
なかいむら
[現在地名]望月町布施
布施川沿い抜井村の南に位置する新田村。上流には沓沢新田・前山山新田があり、東は四二ヵ村入会原野で、西南丘陵地に枝郷藤巻がある。村名は辺りに出る湧泉にかかわるといい(長野県町村誌)、古くは中井と書かれている(五新田開墾之記)。
寛永九年(一六三二)小諸城主松平憲良(忠憲)の開墾許可を得た(同書)箕輪彦左衛門によって開かれた土地で、当初地元では彦左衛門新田とよばれた。
中居村
なかいむら
[現在地名]大洋村中居
北浦東岸の台地上にあり、西は札村。常陸大掾系図によれば、鎌倉初期に鹿島三郎政幹の子四郎時幹が館を構築し中居氏と称した。以来十数代にわたり支配が継続したらしく、戦国期末の中居秀幹書状(鹿島神宮文書)に「就 御神納之儀御様体承候、当年之事□、手元之百姓共、旱損・大風故、手詰之様ニ候(中略)当年之儀者可入御塩味候」とある。天正一九年(一五九一)佐竹氏の一族東義久の知行地となり、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「六百卅四石四斗 長井」とある。
中居村
なかいむら
[現在地名]藤岡町都賀
三毳山南東麓の台地上にあり、低地は水田が占める。南は大谷田村、西は幡張村、北は大田和村、東は新井村。慶安郷帳に村名がみえ、田四〇石余・畑八〇石余、下総古河藩領。享保二年(一七一七)旗本土岐領となる。天保年間(一八三〇―四四)の家数二六(改革組合村)。
中居村
なかいむら
[現在地名]御前山村中居
村内を長倉村より小舟村(現那珂郡緒川村)へ通ずる道が南北に貫き、東西を山に挟まれる。東は福岡村。寛永二一年(一六四四)の御知行割郷帳に「中居村」とみえ、「水府志料」には村の東西四町・南北一〇町で、戸数およそ四〇、水戸まで八里と記される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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