臼杵庄(読み)うすきのしよう

日本歴史地名大系 「臼杵庄」の解説

臼杵庄
うすきのしよう

現臼杵市と津久見市(保戸島を除く)全域に比定される。一二世紀中頃の豊後国司であった源季兼の意向・仲介によって、藤原忠通の室宗子の建立した最勝金剛さいしようこんごう(現京都市東山区)寄進された庄園。その前身は豊後大神一族の所領で、臼杵惟隆の父惟茂の時代に立券されたかと思われる。治承四年(一一八〇)五月一一日の皇嘉門院惣処分状(九条家文書)に「布こ(豊後) うすきへつき」とみえ、領主権は宗子からその娘で崇徳天皇皇后であった皇嘉門院藤原聖子(藤原忠通の娘)に譲られており、聖子はこれを養子九条良通(九条兼実の子)に譲り渡している。文治年中(一一八五―九〇)原図が作成された宇佐宮仮殿地判指図(宇佐神宮蔵)には臼杵庄とみえ、当庄は若宮鳥居内置路甃六八丈五尺のうち三丈、北生江垣九〇間のうち一〇間など合せて七件を負担している。豊後国弘安田代注進状には臼杵庄二〇〇町とある。当庄は良通に譲られたのち良通が早世したため父兼実の管理するところとなり、のちに兼実の娘宜秋門院任子に譲られたが、彼女の死後は兼実の孫道家への譲与という条件が付けられていた(元久元年四月二三日「九条兼実置文」九条家文書)。建長二年(一二五〇)一一月、道家は臼杵・戸次へつぎ庄を夭折した長子教実の妻九条禅尼に譲与している。ただし一期の後は宣仁門院藤原彦子(教実の長女)に譲与し、その後は孫の九条忠家(九条禅尼息)子息(忠教)に譲るべしとされている(「九条道家譲状案」同文書)。建武三年(一三三六)八月二四日、九条道教は家領臼杵・戸次庄領家職を安堵されている(「九条道教家領目録案」同文書など)。九条忠教から道教の間に師教・房実への伝領があったと考えられる(正中二年四月一三日「後醍醐天皇綸旨」同文書など)。建武四年六月一四日両庄は再度道教に安堵されている(「光厳院院宣」同文書)


臼杵庄
うすきのしよう

臼杵郡内にあった平安時代後期成立の豊前宇佐宮領庄園。平安末期と推定される宇佐大鏡では「臼杵郡本庄号臼杵庄」とあり、臼杵庄は本庄とよばれていた。庄園は御封田六九町九段一〇代と庄田起請定田五〇町からなる。御封田からは所当済物として春御祭料・冬御祭料・弥勒寺料封租を出し、起請定田からは所当済物として重色(米)一〇〇石・軽色(絹)一〇〇疋・田率綿三七両二分、例済雑物として桑代絹四二疋・万灯会料など、御放生会料として凡絹三〇疋などを出し、ほかに贄を貢納した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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