平岡村(読み)ひらおかむら

日本歴史地名大系 「平岡村」の解説

平岡村
ひらおかむら

[現在地名]右京区うめはたしり町・うえノ町・かがり町・清水しみず町・高鼻たかはな町・中田なかた町・中縄手なかなわて町・畑町はたまちはたした町・古田ふるた町・みやくち町・むこう町・やぶした町・山崎やまざき町〉

北は善妙ぜんみよう寺・鳴滝なるたきの二村、西は広芝ひろしば・善妙寺二村、南は上嵯峨かみさが村、東は高鼻谷たかはなだに(現高鼻川)を境に鳴滝村に接する。村の中央部を東から北北西に一条街道(現周山街道)が通じ、鳴滝川上流の支流中田なかた川・奥殿おくどの川が東に流れ、四方を山に囲まれる。

村名は、高雄山神護じんご寺の鎮守平岡八幡宮が村の中央に鎮座することにより、「諸社根元記」大同四年(八〇九)一二月の記に「奉請平岡之山崎」とある。


平岡村
ひらおかむら

[現在地名]臼杵市諏訪すわ 平岡・大橋おおはし花園はなぞの昭和しようわ諏訪山すわやま

臼杵川と末広すえひろ川が合流する河口部左岸に位置し、南は末広川を挟んで江無田えむた村、西は芝尾しばお村、北は硴江かきえ村、東は臼杵湾に面する。慶長二年(一五九七)の臼杵庄検地帳写(渡辺家文書)に村名がみえ高三三石余、うち田方一三石余・畑方二〇石余、村位は下。同一一年の惣御高頭御帳では田井村組に属し同高、村役人に新二郎を記す。寛永一一年(一六三四)の郷村高付帳(臼杵藩政史料)では井村組に所属するが、のち大野組に属した(万用集)。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳では本高二四石余・出来高九石余、日損所、「柴山少有」とある。


平岡村
ひらおかむら

[現在地名]櫛形町平岡

上宮地かみみやじ村の南西、櫛形山東麓を東流する深沢ふかさわ川南岸の市之瀬いちのせ台地上の平地に立地し、根方ねかたに属する。村域は南北六町・東西一三町(文政一一年「村明細帳」平岡区有文書)。永禄四年(一五六一)の番帳の五三番に「平をかのねき」がみえる。これは当地の諏訪明神の禰宜と推定される。慶長一三年(一六〇八)の番帳では四八番に「平岡之禰宜」とみえる。天正一〇年(一五八二)六月二〇日、鷹尾たかお(現増穂町)は徳川氏より「平岡之郷」内の普済ふさい寺分六〇〇文ほかの地などを安堵されている(「徳川家寺領書立」平林区有文書)。同年一二月三日、小林助三郎が平岡内二貫八〇〇文の地ほかを本領として安堵されている(「徳川家印判状写」中巨摩郡志)。翌一一年四月一七日、中込次郎左衛門尉が徳川氏から「平岡」ほかを本領として安堵されている(「徳川家康印判状写」同書)


平岡村
ひらおかむら

[現在地名]仙台市長町ながまち三―八丁目・郡山こおりやま一―三丁目・八本松はちほんまつ一―二丁目・長町南ながまちみなみ一―四丁目

郡山村の北・西方、広瀬川右岸、大年寺だいねんじ山の南方に位置する。奥州街道が南北に縦貫し、長町宿のうち南長町宿が村内にあった。南はざる川を隔てて大野田おおのだ村、北・西は根岸ねぎし村。平岡の地名は、当村鎮座の舞台ぶたい八幡神社が天喜年中(一〇五三―五八)源頼義父子が安倍頼時と戦った時、河内国平岡(現大阪府東大阪市)から当地に遷祀されたことに由来すると伝える。


平岡村
ひらおかむら

[現在地名]印西市平岡

別所べつしよ村の北東、利根川支流の将監しようげん川南岸に位置。西は竹袋たけふくろ村。北部は川沿いに田地が広がり、南部は台地で畑地と山林に分れ、東西の村境は谷津となっている。慶長七年(一六〇二)の本田検地帳(写、香取家文書)によれば反別二二町四反余、ほかに永不作田畑一二町五反余。名請人三四、屋敷筆数一二。寛永二年(一六二五)知行宛行状では平岡郷一一〇石が旗本大久保領となっている。同一〇年には幕府領、明暦元年(一六五五)には旗本木村氏、寛文元年(一六六一)には旗本森氏の知行地。


平岡村
ひらおかむら

[現在地名]淀江町平岡

壺瓶つぼかめ山の南麓に位置し、東は道を隔てて福頼ふくより村。もとは東谷ひがしだに村と称したが、文政六年(一八二三)平岡村に改められ、天保五年(一八三四)届出された(同書)会見あいみ郡に属し、拝領高二四三石余、本免五ツ四歩。藪役銀八匁三分が課されていた(藩史)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高三七四石余、竈数一五。「伯耆志」によれば家数一五・人数七六。産物は木綿。享保一〇年(一七二五)西尾原にしおはら村領南谷みなみだにに草山入会について(在方諸事控)、宝暦五年(一七五五)には本宮ほんぐう村の運上山草刈場について西尾原村などとともに争論に加わっている(淀江町誌)。安永五年(一七七六)本宮川(宇田川上流)水下の中西尾なかにしお村ほか三ヵ村と連名で、いずみ(現米子市)の新開のため本宮川の水を引く計画に反対した(宇田川村史)


平岡村
ひらおかむら

[現在地名]真室川町平岡

新町あらまち村の東、西流する金山かねやま川の流域に位置し、北東は朴山ほおやま(現金山町)。かつては新町村の枝郷扱いであったが、元禄一五年(一七〇二)一村となった。枝郷として漆坊うるしぼう片杉野かたすぎの糸出いとでかわくちがある(新田本村鑑)。縄文時代中期の集落跡平岡遺跡、同じく中期から晩期にかけての集落跡糸出遺跡などがある。羽黒山修験本宗大仏山光明こうみよう院には元亨四年(一三二四)銘の緑泥片岩製板碑(県指定文化財)がある。典型的な武蔵型で、武蔵国からの移入と考えられる(真室川町史)。明和三年(一七六六)には高四九七石余、文化元年(一八〇四)には高五〇四石余、うち田方四一一石余、反別五八町七反余、うち田方四〇町八反余(吉村本村鑑)、文政一〇年(一八二七)新庄領総高控では竈数六二(うち借屋三)、人数二九七人、駄馬四一。


平岡村
ひらおかむら

[現在地名]富山市平岡

呉羽山くれはやま丘陵の南、羽根はね丘陵北麓に位置。北東は境野新さかいのしん村、西は開発かいほつ村。婦負郡に属し、寛永一六年(一六三九)以降富山藩領。正保郷帳では高三三三石余、田方一九町余・畑方三町二反。承応四年(一六五五)の村御印では草高三三二石余、免二ツ一歩。一七九石余が蔵入で、残りは九人の給地(村々御印物等書上)。寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡では古高四〇九石余・定免二ツ九歩六厘、新田高八七石余・平均免八歩二厘九毛二味六払、銀納畑二万五千四一歩。同一二年唐蝋木一五本が植付けられた(「御用留帳」岡崎家文書)


平岡村
ひらおかむら

[現在地名]余目町平岡

廿六木とどろき村の北にあり、北を最上川が東から西に流れる。寛文九年(一六六九)の検地帳(平岡区有文書)によれば、当村開発は承応三年(一六五四)より始められ、寛文九年検地が行われた。開発者は狩川かりかわ通代官真島忠兵衛と相役吉川多右衛門。同帳では村高一四一石余、延享四年(一七四七)には田高一一七石余・畑高二八石余(嘉永七年「狩川大堰手控」佐藤文書)庄内要覧によると免三ツ六分。明治四年(一八七一)村明細帳(平岡区有文書)によると高一五四石余、田一二町一反余・畑一六町九反余。畑作物は大豆が中心で年々八一俵ぐらいを産し、ほかに小豆・大根・蕪・麦を栽培し夫食に用いていた。


平岡村
ひらおかむら

[現在地名]五十崎町平岡

もと天神てんじん村といい、天保郷帳にも「天神村」と記されているが、天保九年(一八三八)藩内一〇ヵ村とともに村名替を公許され平岡村となった。小田おだ川東岸の沖積平野を占め、東は重松しげまつ村、南は宿間しくま村、西は小田川を隔てて古田ふるた村、北は知清ちせい村前むらさき(現内子町)の両村に接している。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の喜多郡の項に「天神村 日損所、茅山有、川有」とある。元文五年(一七四〇)の「大洲秘録」には「平岡村 以前天神村と云ふ、(中略)産物 米・大豆・紙、土地肥沃にして諸作能く熟し百姓豊饒の者多し」と記されている。


平岡村
へいおかむら

[現在地名]和歌山市平岡ひらおか

名草なくさ郡に属し、中筋なかすじ村の南東にあり、東は那賀なが吉田よしだ(現岩出町)。「続風土記」は村名について「土人は表可と約めて呼ふ」と記す。また「平岡中筋日延三村は氏神も異にして、其地古は那賀ノ郡に隷属せしといふ」とも記す。慶長検地高目録によると高三八三石余、小物成一斗二升一合。


平岡村
ひらおかむら

[現在地名]本荘市内越うてつ 内越

いも川東岸の平野部にあり、南は畑谷はたや村、東は中野目なかのめ村・山田やまだ村、北は漆畑うるしはた村、西の芋川対岸は内黒瀬うちくろせ村。

慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)では内越郷の内に村名がある。正保三年(一六四六)の出羽国油利郡内高目録(秋田県庁蔵)に高三二七石七斗九升八合とあり、一三石九斗一升五合の畑以外は田であった。元禄一五年(一七〇二)の出羽国由理郡郷村高辻帳では三七六石一斗三升と漸増している。


平岡村
ひらおかむら

[現在地名]宇治田原町大字立川たちかわ 平岡

田原川の南側に位置し、集落は大道寺だいどうじ川下流の両岸に集まる。北は岩本いわもと村に接し、東は大道寺村

元和九年(一六二三)禁裏新御料となった田原郷一五ヵ村のうち最も小さい村で、享保一四年(一七二九)山城国高八郡村名帳には村高四五・〇五四石と記される。元禄一二年(一六九九)の戸数三五。


平岡村
たいおかむら

[現在地名]新庄町大字平岡

山田やまだ村の西南、葛城山麓の高台地の村。元禄郷帳には「タイノ岡」と訓じる。延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳に「(忍海郡)極楽寺免田十町 卅一条三里卅五(坪)八反」とある極楽ごくらく寺は、当村の平岡山極楽寺(浄土宗)のことか。行基の開基と伝え、元禄年間(一六八八―一七〇四)に火災に遭っている。境内には鎌倉末期の五輪塔や室町期の名号碑などがある。

江戸時代初期は脇田わきだ村のうちで、福島兵部領。


平岡村
ひらおかむら

[現在地名]堺市平岡町

家原寺えばらじ村の南に位置し、村の西端部を石津いしづ川が北流する。大鳥郡に属する。慶長一〇年(一六〇五)和泉国絵図に「広岡村」とみえる。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳には「八田庄毛穴村・平岡村」とみえ、合せて六四〇石余の幕府領(堺奉行支配)。慶安四年(一六五一)和泉国郷村高辻帳では一村でみえ二四五石余、その後一五石余の減少がみられるが大幅な変化なく幕末に至る。幕府領ののち寛文四年(一六六四)堺奉行となった旗本水野元重領となったが、その後再び幕府領。


平岡村
ひらおかむら

[現在地名]加茂川町平岡

上賀茂かみがも村の西、標高三五〇メートルほどの台地上にある。寛永備前国絵図に村名がみえ、高一六七石余。寛永七年(一六三〇)の検地では朱印高のほか改出高七一石余(貞享元年「津高郡高目録」池田家文庫)。「備陽記」によると田畠二三町七反余、家数四一・人数二二六。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば直高三三七石余、蔵入と家臣四名の給地。


平岡村
ひらおかむら

[現在地名]富士見町平岡

神代じんだい村の北西にあり、甲州道中(現国道二〇号)に沿う散村。西方を釜無かまなし川が流れる。天正一八年(一五九〇)の諏訪郡御検地御高帳(諏訪郡諸村並旧蹟年代記)に「高弐拾六石八斗九升 平岡郷」とあるのを初見とする。慶長七年(一六〇二)の千野伊豆守等連署渡状(茅野文書)に「此渡所 三石四斗五舛者 花岡村 三石五斗五舛者 駒沢村 壱石者 平岡村 合 八石也」と記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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