花房 端連
ハナブサ マサツラ
- 肩書
- 岡山市初代市長,第二十二国立銀行頭取
- 旧名・旧姓
- 旧姓=徳田
- 生年月日
- 文政7年8月3日(1824年)
- 出生地
- 備中国(岡山県)
- 経歴
- 備中岡田藩士の次男に生まれ、岡山藩士の養子となる。岡山藩の少参事、大参事を歴任。廃藩後、工部省鉄道寮に出仕、鉄道権助となるが、明治9年辞任。同年第二十二国立銀行を岡山に創立し、頭取に就任。また16年岡山紡績会社を創設、22年岡山の市制施行にともない初代岡山市長となる。23年辞職。これより先、郷校閑谷黌の再興を図り、救貧院、感化院を創設、その他交通・産業の発展に尽した。
- 没年月日
- 明治32年4月7日
- 家族
- 三男=花房 直三郎(統計学者)
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
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花房端連
没年:明治32.4.7(1899)
生年:文政7.8.3(1824.8.26)
明治期の実業家。備中国(岡山県)岡田藩士徳田尚二の次男。岡山藩士花房義考の養嗣子。幕末に大坂蔵屋敷に勤務し藩財政に関与。明治初年岡山藩小参事,大参事。廃藩後,工部省鉄道寮に勤務。その後岡山に戻り,明治10(1877)年旧岡山藩主池田章政の出資を得て士族授産を目的に第二十二国立銀行を岡山に創立し頭取となる。13年岡山商法会議所初代会頭。14年池田の後援により岡山紡績所を開業。他方で岡山の士族の結社で児島湾の干拓を目指していた微力社の内紛を収めた。その後身の有終社は政府からの借入も受けて16年岡山紡績所を岡山紡績会社に改組した。22年初代岡山市長。郷学閑谷黌の復興や救貧院,感化院の設立にも尽力。息子の義質と直三郎は共に官僚として活躍した。<参考文献>『岡山市史』5,6巻
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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花房端連 はなぶさ-まさつら
1824-1899 明治時代の実業家,社会事業家。
文政7年8月3日生まれ。備前岡山藩士花房義孝の養嗣子。明治10年岡山に第二十二国立銀行を創立し,頭取となる。14年岡山商法会議所初代会頭。岡山紡績の創設にも参画。郷校閑谷黌(しずたにこう)を再興,救貧院,感化院を設立した。22年初代岡山市長。明治32年4月7日死去。76歳。備中(びっちゅう)(岡山県)出身。本姓は徳田。通称は七太夫。号は蘭堂。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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