花栗村(読み)はなぐりむら

日本歴史地名大系 「花栗村」の解説

花栗村
はなぐりむら

[現在地名]頓原町花栗

佐見(さみ)村・頓原村の北に位置し、西は二本松(にほんまつ)峠を経て長谷(ながたに)村に至る。村の中央を花栗川が西流し、長谷村との境で頓原川に合流。花栗川の流域に瀬戸(せと)・門(かど)・中(なか)・下(しも)の各集落があり、盆地状の地形をなす。明応(一四九二―一五〇一)頃備後国蔀山(しとみやま)城(現広島県高野町)を本拠とする多賀山氏の一族が花栗城を居城とし、城主は花栗伊賀守弥兵衛といわれる。永正一一年(一五一四)花栗弥兵衛は本家多賀山氏に反し、同年九月九日蔀山城で城主の多賀山通広と子息通時を討果たしている(永禄二年一二月「多賀山通続同家系図案」山内首藤家文書など)。


花栗村
はなぐりむら

[現在地名]草加市花栗一―四丁目・松原(まつばら)四丁目・小山(こやま)一丁目

苗塚(なえづか)村の東、旧荒川流路の屈曲した鼻の位置にある。足立郡赤山(あかやま)領に属した(風土記稿)。田園簿では田三〇一石余・畑七七石余、関東郡代伊奈忠治領。承応二年(一六五三)の忠治没後は三男忠臣領となり(寛政重修諸家譜)、以後幕末まで旗本伊奈領。検地は寛永一六年(一六三九)に行われた(風土記稿)。日光道中草加宿の助郷で勤高は三七九石(享保一一年「草加町助郷帳」大川家文書)。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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