花輪村(読み)はなわむら

日本歴史地名大系 「花輪村」の解説

花輪村
はなわむら

[現在地名]鹿角市花輪

鹿角盆地中央部、東西から山地が迫り盆地が狭まる所に位置。近世には盛岡藩花輪通の中心として、花輪館を中心に町並ができた(→花輪通

奥羽永慶軍記」の「南部信直 秋田比内を攻るの事」に、天正一六年(一五八八)のこととして「花輪」と記す。「鹿角郡由来記」には、戦国後期の頃、安保氏に出自をもつ花輪次郎が領知し、天正八年、大光寺左衛門佐正親が南部信直より知行三千石を得て花輪・尾佐利おさり(尾去沢)石鳥谷いしどりや夏井なついの五ヵ村を支配したとあり、中世後期には開村していた。

集落東側台地上に自然地形を利用した中世館跡があり、北から俗称黒土くろつち館・ふる館・花輪館・孫右衛門まごえもん館などが南北に並び、それぞれ連郭状平坦面と空堀などを残すとともに、馬場ばば・古館・荒屋敷あらやしきなどの小字名をも残す。「鹿角郡由来記」に「花輪村ハ大館也」とあり、おそらくこれらは関連をもった一個の館として機能していたものであろう。


花輪村
はなわむら

[現在地名]東村花輪

荻原おぎはら村の北東、渡良瀬川沿いに位置。銅山あかがね街道が通り、近世には銅問屋が置かれて賑った。寛文郷帳によると高三〇四石余(畑方のみ)。宝暦六年(一七五六)の村明細帳(「勢多郡誌」所収)によると高五四六石余(うち桑・楮高六二石余)・反別五八町七反余。百姓家数二三二、諸職に大工三、座頭一、指物一、木挽一、彫物三、たたみ屋二、馬喰二など。馬六〇。銅蔵一。一・六・一六・二六の四日、毎月市が立てられた。文化四年(一八〇七)の繭代残金滞出入訴状(金子文書)によると、当村の藤兵衛ら五人が「惣〆金高百八両也」の繭代残金滞りで訴えられている。訴訟人は追貝おつかい村・平川ひらがわ村・高戸屋たかとや(現利根郡利根村)などの百姓である。


花輪村
はなわむら

[現在地名]宮古市花輪

長沢ながさわ川流域にあって、田鎖たくさり村の南に位置する。花和村とも記した。花輪集落の西に田鎖氏の一族、花輪氏の居館跡がある。花輪氏の譜(参考諸家系図)に天文一五年(一五四六)花輪館に移居とあり、古くは田鎖氏の所領に属した。戦国初期、一族花輪氏に譲られたものと思われるが、江戸時代に入って没収され、全村蔵入地となった。「雑書」正保四年(一六四七)一一月三日条に当村上知の記事が載る。正保国絵図に村名がみえ、高は八三石余。元禄十郡郷帳による〆高は田方一〇六石余・畑方一〇九石余。安永五年(一七七六)の宮古代官所支配高帳(小笠原文書)では高二二五石余、うち六石余は深山権現(現華森神社)別当百姓与平次の御免地。


花輪村
はなわむら

[現在地名]富津市花輪

売津うるづ村の東に位置し、みなと川が流れる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に薬輪村とみえ、高一七八石で、幕末まで変わらない。宝永七年(一七一〇)から佐貫藩領で、幕末に至る。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数二九、同年の人数一六三(椙山家文書)。文化八年(一八一一)松平定信によるたけおか台場および陣場の普請に伴い人足の割当があった(「黒坂日記」富津市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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