若江城跡
わかえじようあと
河内の平野部のほぼ中央部、玉串川と楠根川に挟まれ、楠根川を自然の外堀とした完全な平城。長禄四年(一四六〇)九月、河内守護職を更迭された畠山義就は、京都から洞ヶ峠(現枚方市)を経て若江城に入っている(経覚私要鈔)。若江城は義就が守護に就任した康正元年(一四五五)三月よりこのときまで守護所として河内の政治的中心地であったと考えられる。応仁の乱中も、「大乗院寺社雑事記」文明二年(一四七〇)八月五日条に「自昨日於河内国合戦有之、東方畠山若江城」とあり、東軍畠山政長の本拠すなわち守護所であったようで、翌年七月にも「若井衆畠山尾張方」とあり(「経覚私要鈔」同月二〇日条)、文明九年九月の記録も「若江ハ東方遊佐之陣也」(「大乗院寺社雑事記」同月二七日条)とあって、応仁の乱中を通じて河内守護代遊佐長直の居城(すなわち守護所)であったようである。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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