朝日日本歴史人物事典 「三好義継」の解説
三好義継
生年:生年不詳
戦国大名。讃岐十河城(香川県高松市)城主十河一存(長慶の弟)の子。したがって長慶の甥に当たる。幼名熊王丸,通称孫六郎,初名重存。左京大夫。永禄6(1563)年8月長慶嫡子義興の死により家督に据えられる。翌年7月長慶没するや遺臣らは喪を秘して義継を領国8カ国の当主としたが,養父の器量におよばず,三人衆と松永久秀が後見した。翌年の将軍足利義輝暗殺後,三人衆と久秀の間に内訌が起こり,三人衆は義継の身柄を拉致,飯盛から高屋城に移され全く三人衆の傀儡となった。しかし三人衆家臣らの人質扱いに怒った義継は,同10年2月秘かに堺の陣を脱して久秀の宿所へ走り,松永党が俄然優位を取り戻した。翌年9月織田信長が入京すると,機を見るに敏な久秀は信長に降り,そのため義継もこれに同調せざるをえなくなり,若江城主として河内北半国は安堵されたものの8カ国の大版図を一挙に失った。翌年3月には新将軍足利義昭の妹と結婚。この縁でその後は義昭とほぼ行動を共にするが,天正1(1573)年7月義昭の反によりその立場は悪化,槙嶋城より退去した義昭を若江城にかくまった咎を受け,同年11月佐久間信盛の猛攻のもとに自刃して果てた。ここに三好宗家は滅亡した。その暗愚が三好大領国を潰し,信長の畿内進出を容易ならしめたといえよう。<参考文献>今谷明『戦国三好一族』
(今谷明)
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