日本大百科全書(ニッポニカ) 「小山義政」の意味・わかりやすい解説
小山義政
おやまよしまさ
(?―1382)
南北朝時代の武将。下野(しもつけ)(栃木県)の守護。1355年(正平10・文和4)父氏政(うじまさ)の死去に伴い家督を継ぐ。勢力拡大を図って、80年(天授6・康暦2)5月、宇都宮基綱(うつのみやもとつな)と争い、基綱以下80余人を殺した。鎌倉公方(くぼう)足利氏満(あしかがうじみつ)はこれを鎌倉府への謀反とみなし、関東八か国の武将に義政追討の命令を下した。義政は討伐軍に祇園(ぎおん)城を囲まれていったんは降伏したが、なお策動を続けたために翌年ふたたび攻撃を受けた。義政は剃髪(ていはつ)して氏満の許しを請うた。82年(弘和2・永徳2)3月祇園城を焼いた義政は、都賀(つが)郡糟尾(かすお)の山中に逃れ挙兵したが、衆寡敵せず、4月13日自刃して果てた。
[佐藤和彦]
『渡辺世祐著『関東中心足利時代之研究』(1926・雄山閣)』