茂呂村(読み)もろむら

日本歴史地名大系 「茂呂村」の解説

茂呂村
もろむら

[現在地名]鹿沼市茂呂・晃望台こうぼうだい東町あずまちよう一―三丁目・幸町さいわいちよう一―二丁目・緑町みどりちよう一―三丁目・上野町うわのまち

くろ川左岸の段丘上に位置し、東は深津ふかづ村・白桑田しらくわだ村、南は上石川かみいしかわ村・上奈良部かみならぶ村、西は上殿かみどの村、北は千渡せんど村。中央部に茂呂山(一九二・六メートル)がある。文明一八年(一四八六)五月二六日の宇都宮成綱寄進状写(寺社古状)によれば、茂呂山が宇都宮の成高じようこう寺に寄進されている。慶安郷帳に村名がみえ、田一五五石余・畑一二九石余。明暦二年(一六五六)検地によれば高五六三石余(北犬飼村郷土誌)。寛文一〇年(一六七〇)の宇都宮領分松平下総守高邨(大野政吉文書)によれば高五六三石余。元和八年(一六二二)から宇都宮藩領、貞享二年(一六八五)幕府領、元禄五年(一六九二)から旗本西郷領、同一一年から宇都宮藩領、正徳元年(一七一一)から幕府領、元文(一七三六―四一)の頃旗本小笠原領、寛延元年(一七四八)から幕府領、宝暦一〇年(一七六〇)下総佐倉藩領、天明七年(一七八七)幕府領、寛政一〇年(一七九八)佐倉藩領となり、幕末に至る。


茂呂村
もろむら

[現在地名]伊勢崎市茂呂

広瀬ひろせ川左岸洪積台地と同右岸沖積低地に位置。北は今泉いまいずみ村、東は伊与久いよく村・保泉ほずみ(現佐波郡境町)、南から西は佐位さい那波なは郡界で、那波郡馬見塚まみづか村・山王道さんのうどう村。中世には淵名ふちな庄に属し、師・毛呂とも記された。享徳の乱当初の享徳四年(一四五五)三月二四日、岩松持国は師に陣を移し、足利成氏と連絡している(同年三月二六日「足利成氏書状写」正木文書)。同年閏四月八日、持国は北一揆の秋間氏が知行していた師郷を給付するよう成氏に申請し、承認されている(「岩松持国闕所注文写」正木文書)。また同一七年一〇月八日には広瀬川を挟んで毛呂島もろじま綱取原つなとりはらの合戦が行われている(同年一〇月一五日「足利成氏感状写」秋田県立図書館蔵)。毛呂島は小字で残る。「松陰私語」によると、岩松家純が長楽ちようらく(現新田郡尾島町)の松陰軒に預けようとした「新地之寺社」のなかに「淵名庄内師郷之上之目」とある。

もとは今泉村と一村で、文禄年中(一五九二―九六)に分村したと伝える(元文三年「茂呂村書上」伊勢崎市立図書館蔵)


茂呂村
もろむら

[現在地名]岩舟町しずか

北は駒場こまば村、東は茂呂もろ新田村、南は御門みかど村・羽抜はぬき村、西は太田おおた(現藤岡町)。慶安郷帳に村名がみえ、田四〇石余・畑一九石余。江戸時代を通して下総古河藩領。天保(一八三〇―四四)頃の古河藩領村明細帳(茨城県潮田文書)によれば高二〇四石余、うち新田一四四石余、反別田九町八反余・畑二九町五反余、取米二八石余・永一三貫余、野永一〇五文・松野永八五文・新屋敷永五八〇文、小物成一貫余、夫永四七二文、大豆二石余、家数一〇四、男一八〇・女一九四、馬一四。修験宗法院(除地一反余)・真言宗金剛こんごう院、社六を記す。茂呂三ヵ村(当村・茂呂新田・富士山新田)内に伏樋一・竪樋一、土橋一一。農間に男は薪売など、女は蓙糸織。


茂呂村
もろむら

[現在地名]緑区茂呂町・大膳野町だいぜんのちよう

富岡とみおか村の南東にあり、椎名上しいなかみ郷に属した。天正三年(一五七五)に村が開かれたと伝える(千葉郡誌)。寛永四年(一六二七)から生実藩領で、同五年の小弓領郷帳に室村とみえ、田二七一石余・畑六六石余。幕末まで同様。文化四年(一八〇七)の年貢は三〇九俵余で、同一四年には不作のため田方三五俵・畑方五俵余が減免となった(鈴木家文書)。天保九年(一八三八)の村明細帳(鴇田家文書)では田二三町二反余・畑八町八反余、家数二九、男七九・女六八。


茂呂村
もろむら

[現在地名]美浦村茂呂

請領うけりよう村の北東に位置する。中世は信太しだ庄に属し、元徳元年(一三二九)一二月日の常陸国信太庄土佐前司跡京進年貢注文(東寺百合文書)に「三郎殿分 上茂呂・竹来・青谷戸 四貫六十文」とあり、上茂呂は茂呂に比定できる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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