日本歴史地名大系 「茜部庄」の解説
茜部庄
あかなべのしよう
〔成立〕
〔領域〕
天徳四年の太政官牒に示された当庄の領域は、厚見郡にあって東は「友河」、南は「尾張河」、西は「平田大路」、北は「朴垣」を限るものであった。この四至は大同四年(八〇九)の立券文によるものと推測される(保延二年七月二五日文書撰進目録・永治二年一〇月日茜部庄住人等解案)。その後、この四至は庄園整理令や国衙および隣接する他庄と東大寺との争いの過程で確認され、ほぼ継承されていく。
天喜元年(一〇五三)七月日の茜部庄司・住人等解案によれば、東は「共河」、南は「尾張河」、西は「平田御庄堺」、北は「三宅寺」を境界としており、延久三年(一〇七一)六月三〇日の太政官牒案では東は「伴河」、南は「尾張河」、西は「高樸」、北は「小厚見小道」、永治元年(一一四一)一〇月二九日の東大寺牒案では東は「友河」、南は「尾張河」、西は「平田大路并高樸」、北は「朴垣并小厚見小路」を境界としている。この境を現在の地図上にあてると、南の「尾張河」とは現在の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報