茜部庄(読み)あかなべのしよう

日本歴史地名大系 「茜部庄」の解説

茜部庄
あかなべのしよう

古代から中世まで存続した奈良東大寺領庄園。旧厚見郡、現在の岐阜市南部の茜部付近一帯に成立していた。大井おおい(現大垣市)とともに東大寺にかかわる関係文書が多数残り、庄園研究史上、著名な庄園の一つにあげられる。成立当初は厚見庄といったが、のち茜部庄とよばれるようになった。当庄に関する史料のうち「岐阜県史」史料編古代中世三に収録されているものは、所蔵先・集合文書名・所収書物名を省略。

〔成立〕

もと桓武天皇の勅旨田。弘仁九年(八一八)桓武天皇皇女朝原内親王の遺言により、母酒人内親王から東大寺に施入された(同年三月二七日酒人内親王施入状、永治元年一〇月二九日東大寺牒案)。このとき厚見庄の墾田一一七町三三九歩であったという。その後、天徳四年(九六〇)東大寺別当光智によって「田畝荒廃、地利無収」状態からの立直しが図られるが、このときは茜部庄とよばれている(同年一二月二七日太政官牒)

〔領域〕

天徳四年の太政官牒に示された当庄の領域は、厚見郡にあって東は「友河」、南は「尾張河」、西は「平田大路」、北は「朴垣」を限るものであった。この四至は大同四年(八〇九)の立券文によるものと推測される(保延二年七月二五日文書撰進目録・永治二年一〇月日茜部庄住人等解案)。その後、この四至は庄園整理令や国衙および隣接する他庄と東大寺との争いの過程で確認され、ほぼ継承されていく。

天喜元年(一〇五三)七月日の茜部庄司・住人等解案によれば、東は「共河」、南は「尾張河」、西は「平田御庄堺」、北は「三宅寺」を境界としており、延久三年(一〇七一)六月三〇日の太政官牒案では東は「伴河」、南は「尾張河」、西は「高樸」、北は「小厚見小道」、永治元年(一一四一)一〇月二九日の東大寺牒案では東は「友河」、南は「尾張河」、西は「平田大路并高樸」、北は「朴垣并小厚見小路」を境界としている。この境を現在の地図上にあてると、南の「尾張河」とは現在のさかい川の流路にほぼあてはまるといえる。同川は現木曾川の旧河道であり、かつて美濃国と尾張国との国境であった。東の「友河」とは、現在の荒田あらた川放水路辺りを流れていた川と思われる。大同四年の立券文では厚見郡条里八条一〇里七坪・一三坪・一九坪を東端としていたという(前掲永治二年解案)。厚見郡の条里の起点は、一条が長良川付近、一里が現岐阜市日置江ひきえ付近と思われ、北から南へ一条・二条、西から東へ一里・二里と続く。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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