天皇の勅旨によって開発された皇室領の田地。おもに空閑地,荒廃田が開墾の対象とされた。766年(天平神護2)の文書に越前国足羽郡の勅旨御田がみえるが,正史の初見は《日本後紀》大同1年(806)7月で,9世紀の天長・承和期(824-848)に集中的に現れる。勅旨田は国司の所管で耕営されるが,諸国の正税・乗稲を開発料にあて,公水を用いて開発された。設置場所は全国に及ぶ。《延喜式》では不輸租とある。承和以降はほとんど後院関係の勅旨田である。勅旨田の評価をめぐっては,皇室独自の私的経済としてとらえ平安初期における天皇制的政治の再建の経済的基礎とする説,空閑地であるのでほとんど問題にしない説,また国家的開発の面を重視する説,などにわかれる。最近では,天皇供御田としての官田を補充・拡大するものとして勅旨田をとらえ,9世紀の律令天皇制に特徴的な土地所有・耕営形態とみなす見解もだされている。902年(延喜2)の荘園整理令で当代以後の開田が停止され,耕営は農民の負作にかえられた。
執筆者:吉村 武彦
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8世紀の末ごろから、律令(りつりょう)制の衰退に対処するため皇室独自の財源として開墾された不輸租田。勅旨開田ともいう。8世紀のなかばごろから貴族や寺院は盛んに開墾を行い、荘園(しょうえん)を形成していったが、これと同趣旨の開墾事業を勅旨によって国家の財政負担で行ったものである。9世紀を通じて盛んに設定されたが、902年(延喜2)に始まった延喜(えんぎ)の荘園整理令の一環として、897年(寛平9)以降の勅旨開田は停止された。しかし、荘園制の進行のなかで勅旨田のみを停止することは不可能で、院政時代に入ると、ことに増加し、なかでも後三条(ごさんじょう)天皇は大いに勅旨田の増大に努めた。その後、鎌倉時代をもって勅旨田は終わりを告げる。
[虎尾俊哉]
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皇室財政を支えるために,天皇の勅旨で設置された田。不輸租田。8世紀からみられ,国司が正税や公水を用いて雑徭(ぞうよう)・雇役労働力によって開発し管理・運営した。とくに9世紀前半の天長・承和年間には大規模で全国的な空閑地・野地・荒廃田の勅旨田化がみられ,この時期の国家的開発事業の主体となった。また各種の賜田(しでん)や施入田に転化されていくことも多かった。しかし10世紀初頭には,勅旨田設定による一般農民の耕作障害が問題となり,開発費用の国庫負担も廃止された。その結果,その後は開墾事業的側面が薄くなり,地子米(じしまい)収取による経営を主体とし,地子米は穀倉院や内蔵寮の主要な財源となった。のちに荘園に転化したものも多い。
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