荒子村(読み)あらこむら

日本歴史地名大系 「荒子村」の解説

荒子村
あらこむら

[現在地名]中川区荒子町・荒子・吉良きら町・的場まとば町・若山わかやま町・上流かみながれ町・小城こしろ町・細米ほそこめ町・大畑おおはた町・葉池はいけ町・馬手うまて町・平戸ひらと町・大塩おおしお町・掛入かけいり

村東に惣兵衛そうべえ川から分れる中井筋があり、「府志」はこれを荒子川と称するが、江戸時代後期には荒子川は西の村境のさらに西を流れている。東の小塚こづか村をはじめ八ヵ村と隣接する。村名の由来は、「新に墾開せし田圃を墾と呼しを、俗訛りてあしこと云ヒ、文字も荒子と書しにや」(塩尻)とも「新治あらたばりの下略転声也」(尾張国地名考)ともいう。

熱田新田築立以前の当地は海に面した地であり、天正二年(一五七四)長嶋の一向一揆を攻めた織田信長は「あらこ」周辺の浦々の船を集めた(信長公記)


荒子村
あらこむら

[現在地名]前橋市荒子町

南は女堀の跡をへだてて二之宮にのみや村、東は西大室にしおおむろ村、北は下大屋しもおおや村、西は荒口あらくち村。寛文郷帳に田方一六五石八斗余・畑方一〇八石四斗余とあり、「但松山雑木山在」と注記される。近世の支配は「郡村誌」によれば、初め前橋藩領、明和五年(一七六八)幕府領、天明五年(一七八五)館林藩領となるという。近世後期の御改革組合村高帳では秋元但馬守領で、家数八〇とある。天保一三年(一八四二)風祭の手品興行を行いたい旨役所へ申出たが、時節を考えぬと厳しく咎められ、詫状(荒子町有文書)を書いている。


荒子村
あらこむら

[現在地名]吉見町荒子

万光寺まんこうじ村の南に位置し、旧荒川筋の自然堤防上に集落が発達する。地内には貞和三年(一三四七)・応永二一年(一四一四)・文明一七年(一四八五)の板碑がある。慶長年間(一五九六―一六一五)に茂兵衛なる者が開発して成立した村で、同一九年伊奈忠次が検地し、この頃には茂兵衛もへえ新田と称していたという(風土記稿)。田園簿に茂兵衛新田がみえ、田高三四五石余・畑高一二二石余、幕府領。日損水損場との注記がある。寛文年中(一六六一―七三)頃に荒子村と改めたという(風土記稿)。元禄郷帳に村名がみえ、高五一八石八斗余、文化一〇年(一八一三)一部が旗本坪内領となり(風土記稿)、以降、同領と幕府領の相給で幕末に至ったと思われる(「郡村誌」など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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