菅ヶ谷村(読み)すげがやむら

日本歴史地名大系 「菅ヶ谷村」の解説

菅ヶ谷村
すげがやむら

[現在地名]相良町菅ヶ谷

萩間はぎま川の支流菅ヶ谷川流域に位置し、東は西中にしなか村、南東堀之内ほりのうち村。天文一一年(一五四二)三月一六日の今川義元判物(華蔵院文書)に「相良西方菅谷村」とみえ、今川義元は当村内の花蔵けぞう(現曹洞宗華蔵院)領を安堵している。文禄二年検地高目録には「すけかや村」とみえ、高六八二石余。正保二年(一六四五)幕府直轄領から掛川藩預となる(掛川預一万石郷村覚)正保郷帳では田方五六五石余・畑方五五石余、掛川藩預、ほかに大程寺(現臨済宗妙心寺派大聖寺か)領一〇石・瑞林ずいりん(現同派随林寺)領四石・花龍院(現華蔵院か)領三石・一万いちまん(現一幡神社)領四石八斗・天神領二石がある。


菅ヶ谷村
すげがやむら

[現在地名]袋井市国本くにもと

江戸時代初めは山名やまな郡、のち周知すち郡に所属。宇刈うがり丘陵から南へ延びる尾根の先端に位置し、東は不入斗ふにゆうと村。南は久津部くつべ村。貞治元年(一三六二)頃とみられる一〇月一九日の西園寺実俊施行状(熊野速玉神社文書)に添付された遠江国国衙領目録に「菅谷郷 七斗二升八合」とみえる。天文二年(一五三三)一〇月一九日の今川氏輝判物(旧辻坊葛山氏文書)によれば、「遠州村松之内引田、菅谷」その他が村山むらやま浅間社(現富士宮市)つじ坊頼信に安堵されている。当時は村松むらまつのうちであったようである。同四年二月一三日、「菅谷」にはこれ以前から冷泉為和の家領があったが、駿河・遠江の家領は今川氏被官らに押領されて有名無実となったので、今川氏親から返還するとの約束を取付けていたが、果されないまま氏親が死に、後を継いだ氏輝はこの事情を知らないのでらちがあかないと嘆いている(為和集)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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