日本歴史地名大系 「堀之内村」の解説
堀之内村
ほりのうちむら
堀之内村
ほりのうちむら
- 埼玉県:所沢市
- 堀之内村
堀之内村
ほりのうちむら
堀之内村
ほりのうちむら
堀之内村
ほりのうちむら
堀之内村
ほりのうちむら
堀之内村
ほりのうちむら
堀之内村
ほりのうちむら
堀之内村
ほりのうちむら
堀之内村
ほりのうちむら
- 神奈川県:小田原市
- 堀之内村
東端を
近世初頭、村は支配上小田原藩領と旗本室賀領(万治三年幕府直轄領)に二分され、寛文三年(一六六三)以後は小田原藩領となったが、その後も引続き名主二名が置かれた。
堀之内村
ほりのうちむら
- 東京都:杉並区
- 堀之内村
堀之内村
ほりのうちむら
- 愛知県:豊橋市
- 堀之内村
豊川の左岸にあり、川が大きく左折するところに位置する。
堀之内村
ほりのうちむら
堀之内村
ほりのうちむら
堀之内村
ほりのうちむら
堀之内村
ほりのうちむら
堀之内村
ほりのうちむら
- 静岡県:下田市
- 堀之内村
堀之内村
ほりのうちむら
堀之内村は、松本領の慶安二年(一六四九)の総検地を経て寛文四年(一六六四)に松本藩主水野忠職が拝領した朱印目録にその名がみえ、朱印高一五二石三升九合を有しているのであるが、正保四年(一六四七)三月一一日付の信濃国絵図高辻にはその村名がみえず、また「信府統記」の「新田開発時節改」にもその村名がみえない。しかし「信府統記」の「諸国絵図改之事」には「堀ノ内村 此村古絵図ニ飯田村ト一ケ村ニ記セリ、新絵図ニ二ケ村ニ分ル」とし、古絵図すなわち正保四年の絵図には
堀之内村
ほりのうちむら
堀之内村
ほりのうちむら
堀之内村
ほりのうちむら
堀之内村
ほりのうちむら
- 長野県:飯山市
- 堀之内村
正保四年(一六四七)、信濃国絵図高辻に「堀内村」とあるのが初見。村高は二一〇石余で、以後ほとんど変わらない。飯山御領分酒株高帳(中島長三郎氏蔵)に、天明八年(一七八八)堀之内村の千治郎は酒株高二五石、造米高四四九石九斗九升三合とある。寛保二年(一七四二)千曲川大洪水では泥水入りが四三石三升八合、当毛皆無が一一一石六升で、村高の半ばを超える被害を受けた(「飯山領村々水損之覚」伊藤長治氏蔵)。
堀之内村
ほりのうちむら
堀之内村
ほりのうちむら
堀之内村
ほりのうちむら
堀之内村
ほりのうちむら
- 愛知県:稲沢市
- 堀之内村
東は
堀之内村
ほりのうちむら
- 千葉県:東金市
- 堀之内村
堀之内村
ほりのうちむら
堀之内村
ほりのうちむら
堀之内村
ほりのうちむら
- 愛知県:春日井市
- 堀之内村
堀之内村
ほりのうちむら
堀之内村
ほりのうちむら
堀之内村
ほりのうちむら
- 東京都:足立区
- 堀之内村
堀之内村
ほりのうちむら
- 千葉県:佐原市
- 堀之内村
堀之内村
ほりのうちむら
堀之内村
ほりのうちむら
堀之内村
ほりのうちむら
堀之内村
ほりのうちむら
堀之内村
ほりのうちむら
堀之内村
ほりのうちむら
- 高知県:南国市
- 堀之内村
堀之内村
ほりのうちむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報