日本大百科全書(ニッポニカ) 「菅浦荘」の意味・わかりやすい解説
菅浦荘
すがうらのしょう
滋賀県長浜(ながはま)市西浅井町菅浦(にしあざいちょうすがうら)にあった荘園。菅浦は琵琶(びわ)湖の北岸南へ突き出た半島にあり、湖水に面した南を除き、三方を山に囲まれた所である。もと寺門円満院(えんまんいん)領大浦(おおうら)荘の一部であったが、当地住民が竹生(ちくぶ)島に寄進した結果、その本寺山門檀那院(だんないん)領となった。平安時代末の菅浦供御人(くごにん)の成立によって朝廷に供御を備進するに及び、諸国の関、渡、津、泊などを自由に通行する権利を獲得し、諸浦との競争のなかで琵琶湖上での漁業、廻船(かいせん)などを有利に進めるに至った。さらに鎌倉時代末から荘境の日差(ひさし)・諸河(もろかわ)の耕地をめぐって大浦荘と激しい相論を展開するが、このような外部との複雑な支配・領有関係が村落内部の結束を固めさせていった。たとえば1461年(寛正2)の置文(おきぶみ)に代表されるような、乙名(おとな)を中心とした「惣(そう)」組織がみられるようになる。しかし戦国大名浅井(あさい)氏の登場により、永禄(えいろく)年間(1558~70)には菅浦荘としてその支配に屈し、誓約状を提出、近世的領有に組み込まれていった。
[江部純一]