菖蒲城跡
しようぶじようあと
新堀から南西の小林沼跡に突き出した埋没台地上に立地するが、遺構は削られてほとんど残っていない。新堀には寄居・宿・城下・要害などの地名がある。「鎌倉大草紙」によれば、享徳四年(一四五五)六月、鎌倉公方足利成氏は幕府軍に鎌倉を追われ、武蔵国府から菖蒲に落ち、下総古河に入ったとあるが、赤堀文書などの記載をみるとこの記述は疑わしい。しかし、状況から享徳の乱の初期一五世紀半ばに築かれたとみられ、佐々木氏が在城したという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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