デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「華叟宗曇」の解説 華叟宗曇 かそう-そうどん 1352-1428 南北朝-室町時代の僧。文和(ぶんな)元=正平(しょうへい)7年生まれ。臨済(りんざい)宗。京都大徳寺の徹翁義亨(てっとう-ぎこう)に師事。のち言外(ごんがい)宗忠の法をつぐ。近江(おうみ)(滋賀県)堅田(かただ)に祥瑞(しょうずい)寺をひらいた。門弟に一休宗純(いっきゅう-そうじゅん),養叟宗頤(ようそう-そうい)ら。正長(しょうちょう)元年6月27日死去。77歳。播磨(はりま)(兵庫県)出身。諡号(しごう)は大機弘宗禅師。【格言など】滴水滴凍 七十七年なり 一機瞥転すれば 火裡に泉を酌(く)む(遺偈(ゆいげ)) 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
朝日日本歴史人物事典 「華叟宗曇」の解説 華叟宗曇 没年:正長1.6.27(1428.8.8) 生年:文和1/正平7(1352) 室町前期の臨済宗の僧。播磨国(兵庫県)揖西の人。8歳にして大徳寺の徹翁義亨の室に入り,14歳で出家,次いで徳禅寺の言外宗忠に参じ,拈華微笑の話により悟得し印可を得た。近江国(滋賀県)堅田の祥瑞庵,安脇禅興庵に居住し,のちに大徳寺派の主流派となる養叟宗頤,一休宗純を指導した。大徳寺系の抄物『碧巌録古鈔』や『臨済録抄』に下語が引用されている。また,徳禅寺入寺を辞退するなど,大寺入寺には関心を示さず,枯淡な一面を有する。<参考文献>平野宗浄「華叟宗曇とその門下」(『禅学研究』57号) (飯塚大展) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報