落合直亮
国学者、勤王家、直文の養父、通称源一郎、漢籍を菅野得斎、遠山雲如に学び、又国学を山内嘉六に受ける。大惨事の時誣言にあい、罷寃され、浅間神社などの宮司となる。明治27年(1894)歿、67才。
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落合直亮 おちあい-なおあき
1827-1894 幕末-明治時代の国学者,神職。
文政10年8月26日生まれ。落合直文の養父。山内嘉六,堀秀成にまなぶ。尊攘(そんじょう)運動にくわわり,藤本鉄石,相楽(さがら)総三らとまじわる。慶応3年江戸薩摩(さつま)屋敷にはいり,浪士隊副総裁。維新後伊那県(長野県)大参事,伊勢神宮禰宜(ねぎ)などをつとめ,のち浅間神社宮司。明治27年12月11日死去。68歳。武蔵(むさし)多摩郡(東京都)出身。通称は源一郎。変名は水原二郎。
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落合直亮
没年:明治27.12.11(1894)
生年:文政10.8.26(1827.10.16)
幕末の志士,国学者。武蔵国多摩郡駒木野村(東京都青梅市)の関守落合俊雄の長男。母はたき。直澄,直言の兄。国文学者落合直文の養父。通称源一郎。山内嘉六,堀秀成に国学を学ぶ。ペリー来航後,尊攘論者となり,文久3(1863)年江戸に出て藤本鉄石らと活動を共にする。慶応3(1867)年10月,同志相楽総三の檄文に応じて江戸薩摩屋敷に入り,水原二郎と変名して浪士隊の副総裁となる。同年12月の,幕府による同屋敷焼打ちを逃れて上京してからは,関東の同志とは別行動をとる。維新後,岩倉具視のつてで伊那(長野)県判事となり,同県大参事まで進むが失脚。その後は各地の神社で宮司などを務めた。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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