デジタル大辞泉
「藤本鉄石」の意味・読み・例文・類語
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ふじもと‐てっせき【藤本鉄石】
- 幕末の尊攘派志士。元岡山藩士。名は真金。通称津之助。文久三年(一八六三)の天誅組の乱では推されて総裁となったが、諸藩の討伐軍に攻められ戦死した。文化一三~文久三年(一八一六‐六三)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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藤本鉄石
ふじもとてっせき
(1816―1863)
幕末尊王攘夷(そんのうじょうい)派の志士。名は真金(まかね)。字(あざな)は鋳公(ちゅうこう)。鉄石は号。本姓片山、叔父(おじ)の岡山藩士藤本彦右衛門重賢(ひこえもんしげかた)の養子となる。1840年(天保11)脱藩し、京都に私塾を開く。安政(あんせい)五か国条約、和宮(かずのみや)降嫁を機に尊攘論を唱え、62年(文久2)島津久光(ひさみつ)の率兵(そっぺい)上京に乗じ、討幕の挙兵を策して失敗。63年8月、吉村虎太郎(とらたろう)、松本謙三郎(奎堂(けいどう))らと中山忠光(ただみつ)を擁して大和(やまと)に挙兵し、天誅(てんちゅう)組の総裁となる。五條(ごじょう)代官所襲撃ののち、諸藩の討伐軍に攻められ、十津川郷士(とつかわごうし)にも離反され、文久(ぶんきゅう)3年9月25日、鷲家口(わしかぐち)で戦死した。
[井上勝生]
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藤本鉄石 (ふじもとてっせき)
生没年:1816-63(文化13-文久3)
幕末の尊攘派志士。名は真金,通称津之助,鉄石は号。備前国上道郡宇野村生れで岡山藩に仕える。養父の死後1840年(天保11)脱藩して上京,諸国を遊歴後伏見に私塾を開く。大老井伊直弼の安政条約調印に憤激し尊攘激派となり,63年(文久3)8月の天誅組大和挙兵には推されて総裁の一人となるが,8月18日の政変により諸藩の討伐を受けることになり,敗れて鷲家口で戦死した。
執筆者:高木 俊輔
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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藤本鉄石
ふじもとてっせき
[生]文化13(1816).備前
[没]文久3(1863).9.26. 大和
幕末の尊皇攘夷の志士。通称は津之助。諱は真金。字は鋳公。鉄石はその号。岡山藩士であったが,天保 11 (1840) 年脱藩して京都に出て私塾を開き,尊王派の志士と交わった。安政仮条約の調印に反対し,討幕運動に参加した。文久3 (63) 年天誅組の挙兵に参加し,松本奎堂,吉村寅太郎とともに総裁に推されたが,和歌山,津,郡山諸藩の兵に攻められ,十津川郷士らとともに大和各地を転戦し,鷲家口で戦死した (→大和五条の変 ) 。贈従四位。著書『日鑒』『神典皇謨』。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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藤本鉄石 ふじもと-てっせき
1816-1863 幕末の尊攘(そんじょう)運動家。
文化13年3月17日生まれ。備前岡山藩につかえたが,脱藩。諸国をめぐったのち京都で私塾言志塾をひらく。和歌,書画にもすぐれた。文久3年天誅(てんちゅう)組総裁となり吉村虎太郎(とらたろう)らと大和で挙兵し,同年9月25日吉野郡鷲家(わしか)口で戦死。48歳。本姓は片山。名は真金(まかね)。字(あざな)は鋳公。通称は津之助。別号に鉄寒士など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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藤本鉄石 (ふじもとてっせき)
生年月日:1816年3月17日
江戸時代末期の尊攘派志士
1863年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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