落部村(読み)おとしべむら

日本歴史地名大系 「落部村」の解説

落部村
おとしべむら

[現在地名]山越やまこし郡八雲町落部・栄浜さかえはま入沢いりさわ下の湯しものゆ上の湯かみのゆ旭丘あさひおか東野ひがしの野田生のだおい・わらび

明治初年に近隣を編入して成立した村で、昭和三二年(一九五七)まで存続した。成立時は渡島国茅部かやべ郡に属し、南はもり(現森町)、北は胆振国山越郡山越内やまこしない村、東は海。近世にはモナシベ、ヲトシベノタヲイユヲイと記録されている地域などからなっていた。

「北行日記」明治三年(一八七〇)七月三〇日条に「落部駅、相木屋文作ト申旅籠店ニテ昼飯ヲ用ユ、此辺外ニ道ナク尽ク海岸ヲ通行ス、此相木屋普請至テ立派ニテ是迄過キシ駅ハ稀ナリ」とある。「渡島国地誌提要」によると戸数一三八(うち寺一・平民一〇五・アイヌ三二)・人数七〇二(うち僧侶一、平民男二九〇・同女二九五、アイヌ男六二・同女五四)


落部村
おとしべむら

野田追のだおい場所に含まれヲトシベとよばれていたが、寛政一二年(一八〇〇)に「ノタヲイ迄」が「村並」となり(休明光記附録)、天保郷帳に落部とみえ、持場として茂無部・野田追がある。安政五年(一八五八)正式に村となった(書付并伺書類)。明治初年近隣を編入して渡島国茅部かやべ郡落部村が成立。成立時は南は茂無部もなしべ村、東は海に面していた。

「西蝦夷地日記」に「ヲトシベ、是は野田追領なり、然ども当所に会所、名主有之」とみえ、続けて名主・小頭の役人が置かれていたことが記される(文化四年一〇月二二日条)。同じ頃「ヲトシヘ、(中略)自鷲木会所、此落部会所迄三里十町五十六間、村会所アリ、落部村端川アリ、川巾二十五間ニテ船渡シ、此川ヘ七、八十石積ノ船ハ川ノ内ニ入ルナリ、其川ヲ渡リテ砂道、鯡昆布場ナリ」(「文化度蝦夷地湊々測量之図」市立函館図書館蔵)ともある。


落部村
おちべむら

[現在地名]大和町落部

うちたに村北東の山間にあり、落部川に沿って集落がある。平家の落人村との伝えがあった(「三ッ山巡り」国会図書館蔵)。東家系図(大坪文書)によれば、承久三年(一二二一)東氏が妙見宮下総から内ヶ谷村に遷座し、のちつるぎ村へ移した。そのとき両村中継地の当地を開拓したという。正保郷帳に落辺村とみえ、田方四五石余・畑方五四石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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