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蒲生氏郷 がもううじさと

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

蒲生氏郷
がもううじさと

[生]弘治2 (1556). 近江
[没]文禄4 (1595).2.7. 京都
安土桃山時代の武将。幼名鶴千代,初名賦秀,通称忠三郎,受洗名レオ。江州日野音羽城主で,もと佐々木氏に属し,のち織田信長に仕えた蒲生賢秀の子。若年で信長の人質となり,次いで豊臣秀吉に仕え,しばしば戦功をたて,天正12(1584)年,伊勢松ヶ島(→松阪市)12万石の城主となった。同 18年の小田原征伐の功として会津若松へ移封,42万石を領した。文禄2(1593)年,91万9300石に加増。同 4年,文禄の役に際し従軍中罹患して病没。茶を千利休に習い,文武両道に通じた名将と伝えられている。

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デジタル大辞泉の解説

がもう‐うじさと〔がまふうぢさと〕【蒲生氏郷】

[1556~1595]安土桃山時代の武将。近江(おうみ)の人。初名は賦秀(やすひで)。キリスト教に入信。織田信長豊臣秀吉に仕え、九州征伐小田原征伐の功により会津42万石(のち92万石)を領した。

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百科事典マイペディアの解説

蒲生氏郷【がもううじさと】

安土桃山時代の大名。通称忠三郎(ちゅうざぶろう)。近江(おうみ)日野城主賢秀(かたひで)の子。織田信長豊臣秀吉に属し,1584年小牧・長久手の戦で功をあげ,伊勢松ヶ島に12万石を領す。
→関連項目若松

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

蒲生氏郷 がもう-うじさと

1556-1595 織豊時代の武将。
弘治(こうじ)2年生まれ。蒲生賢秀(かたひで)の長男。織田信長,豊臣秀吉につかえ,小牧・長久手(ながくて)の戦いなどの功により伊勢(いせ)松ケ島城主となる。天正(てんしょう)13年キリスト教に入信。18年小田原攻めに参加,陸奥(むつ)会津(あいづ)に転封(てんぽう)(42万石)。のち加増されて92万石。文禄4年2月7日死去。40歳。近江(おうみ)(滋賀県)出身。初名は賦秀(やすひで)。通称は忠三郎。洗礼名はレオン。
【格言など】限りあれば吹かねど花は散るものを心みじかき春の山風(辞世)

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朝日日本歴史人物事典の解説

蒲生氏郷

没年:文禄4.2.7(1595.3.17)
生年:弘治2(1556)
安土桃山時代の武将。六角氏の重臣で近江国蒲生郡甘野城主蒲生賢秀の子。幼名鶴千代,忠三郎賦秀。洗礼名レオン。蒲生氏は鎮守府将軍藤原秀郷の後裔。永禄11(1568)年織田信長に降った父賢秀の人質として岐阜に赴き同地で元服。信長は自身の弾正忠の官名の1字を与えて忠三郎賦秀と名づけた。12年信長に従い伊勢に戦い,同年の冬信長の娘を娶り日野に帰城。以後,信長に従軍し,朝倉攻め,小谷城攻め,長島の合戦,長篠の戦,などに参加。本能寺の変のときには,日野に在城していて明智光秀の勧誘をしりぞけて安土から信長の家族を引きとり父と共に籠城。秀吉はこれを賞して光秀の欠所地5000石を与えた。天正11(1583)年柴田勝家と戦い,秀吉はこれをよろこんで氏郷の妹を夫人に迎えた。また滝川一益の拠る伊勢国を攻め,その功により亀山城を与えられ,小牧・長久手の戦にも参加し,南伊勢に12万石を充行われ松ケ島城に移る。13年大坂で洗礼を受けてレオンと称した。15年九州攻めに参陣し,羽柴姓を与えられ,16年正四位左近衛権少将となり,松坂城に移る。18年小田原攻めに参加し,8月会津を中心とした陸奥,越後12郡42万石に転封し,黒川城に移る。その後,大崎葛西一揆九戸政実の乱鎮圧のため出陣,その功により陸奥,出羽7郡18万5000石を加増され,総高91万9000石余となり(文禄3〈1594〉年検地)大大名となる。文禄1年上洛し,肥前名護屋に赴いた。同年若松城本丸が完成し,かつ城下町建設にも着手。墓は京都大徳寺

(伊藤清郎)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

がもううじさと【蒲生氏郷】

1556‐95(弘治2‐文禄4)
安土桃山期の武将。幼名鶴千代,のち忠三郎。実名は教秀,賦秀(やすひで)のち氏郷。従三位参議。近江蒲生郡日野城主蒲生賢秀の子。はじめ織田信長に仕え,その妹を妻とした。本能寺の変に信長夫人生駒氏を日野城に迎え,功により秀吉から明智光秀欠所地の一部,ついで伊勢亀山城を与えられた。1584年小牧・長久手の戦などの功により伊勢松ヶ島12万石を賜り,85年賦秀を氏郷と改めた。86年従四位下侍従,87年羽柴姓を許され,88年正四位下左近衛少将に進み,伊勢松坂城に移る。

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大辞林 第三版の解説

がもううじさと【蒲生氏郷】

1556~1595) 安土桃山時代の武将。初名、賦秀やすひで。蒲生賢秀の子。織田信長・豊臣秀吉に仕え、小田原・奥州出兵に活躍。会津九一万石余を領す。キリスト教に入信。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

蒲生氏郷
がもううじさと
(1556―1595)

安土(あづち)桃山時代の武将。近江(おうみ)国(滋賀県)蒲生郡日野(ひの)中野城に生まれる。父は同城主蒲生賢秀(かたひで)。幼名鶴千代(つるちよ)。1568年(永禄11)人質として岐阜の織田信長のもとに送られ、元服して忠三郎賦秀(やすひで)(85年ころ氏郷と改名)と称し、翌69年冬、信長の娘と結婚し日野に帰った。以後信長の臣として各地に転戦、83年(天正11)豊臣(とよとみ)秀吉に従い、同年飛騨守(ひだのかみ)に補任(ぶにん)。84年小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦いなどの功により伊勢(いせ)松ヶ島(松阪市)12万石を与えられてここに移る。86年従四位下(じゅしいのげ)侍従。88年正四位下左近衛権少将(さこんえのごんのしょうしょう)に進み、羽柴(はしば)姓を許される。同年松坂城を築きここに移る。90年小田原征伐に従軍、同年8月会津に転封となり、73万石(文禄(ぶんろく)3年検地で92万石)を得て黒川城に入り、92年(文禄1)黒川を若松(わかまつ)と改名し、城と城下町の建設を進めた。94年従三位(じゅさんみ)参議に叙任。93年肥前名護屋(なごや)参陣中に下血(げけつ)を病んだが、94年10月秀吉を京都・伏見(ふしみ)邸に迎えてからまもなく病床に伏し、翌95年(文禄4)2月7日死去した。墓所は京都・大徳寺(だいとくじ)昌林院(しょうりんいん)(現在、黄梅院管理)。和歌をよくし、茶道のたしなみも深かった。武勇に優れ、千利休(せんのりきゅう)は彼を日本で一、二の大名と評したという。日野→松ヶ島→松坂→若松と城下町商工業者を引き移したことも、その楽市(らくいち)・楽座令とともに知られている。[小林清治]
『『会津若松史2』(1965・会津若松市) ▽今村義孝著『蒲生氏郷』(1967・人物往来社)』

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世界大百科事典内の蒲生氏郷の言及

【会津藩】より

…陸奥国若松に藩庁をおいた藩。1589年(天正17)中世会津を支配した蘆名氏を破り,この地を領した伊達氏はまもなく去り,90年蒲生氏郷が90万石の領主として黒川の地に入った。黒川は15世紀後半から蘆名氏の城下町として発展してきていたが,氏郷は城と城下の本格的経営にのりだし,外郭を新設,郭内も整備,侍屋敷と町屋敷を画然と区別,郷里近江国蒲生郡若松の森にちなんで,この地を若松と改めた。…

【若松】より

…黒川を拠点に中世会津を支配した蘆名氏は,1589年(天正17)伊達政宗に滅ぼされ,政宗もまた1年余で米沢へ去った。 90年,豊臣秀吉から会津の地を与えられ黒川へ入った蒲生氏郷(がもううじさと)は,郷里近江国蒲生郡の若松の森にちなんで,黒川を若松と改めた。氏郷は,これまで郭内にあった大町,馬場町などの町屋を郭外に移し,近江国日野町から従ってきた商工業者には日野町(のちの甲賀町)を割り出した。…

※「蒲生氏郷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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