藤原能信(読み)ふじわらのよしのぶ

改訂新版 世界大百科事典 「藤原能信」の意味・わかりやすい解説

藤原能信 (ふじわらのよしのぶ)
生没年:995-1065(長徳1-治暦1)

平安中期の廷臣藤原道長の子。母は源明子。道長の子として参議を経ずして権中納言になるなど順調に栄進し,皇后宮大夫として後朱雀天皇の皇后禎子内親王につき,中宮嫄子を養女とする異母兄頼通と対抗した。1045年(寛徳2)後朱雀天皇は譲位にさいし,第1皇子冷泉天皇皇太子に禎子内親王所生の第2皇子尊仁親王(後三条天皇)をつける意志がありながら,関白頼通の反対をうけたが,能信の強力な助言により,ようやく実現した。以後東宮大夫として尊仁親王を補佐し,親王の妃に女茂子を入れ,所生の皇子がのちに白河天皇となる。没したときは権大納言正二位であったが,白河天皇の外祖父のために73年(延久5)太政大臣正一位を追贈された。
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朝日日本歴史人物事典 「藤原能信」の解説

藤原能信

没年:治暦1.2.9(1065.3.18)
生年:長徳1(995)
平安中期の公卿。正二位。道長と左大臣源高明の娘明子の子。5男。19歳で三条天皇の蔵人頭となり,寛仁1(1017)年権中納言,治安1(1021)年権大納言に進んだ。半世紀近くこの官にとどまったのは義兄頼通と不仲であったからか。寛徳2(1045)年,後冷泉天皇の即位に際し尊仁親王(のちの後三条天皇)の立太子に尽力し,実現するや東宮大夫となった。後三条天皇に養女の茂子(実父は藤原公成)を入れ,生まれた第1皇子貞仁親王が,延久4(1072)年即位して白河天皇となった直後に正一位,太政大臣を追贈された。<参考文献>河野房男『平安末期政治史研究』

(朧谷寿)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原能信」の解説

藤原能信 ふじわらの-よしのぶ

995-1065 平安時代中期の公卿(くぎょう)。
長徳元年生まれ。藤原道長の4男。母は源明子。正二位にすすみ,治安(じあん)元年(1021)権(ごんの)大納言となる。異母兄の関白頼通(よりみち)に対抗し,尊仁(たかひと)親王(のちの後三条天皇)の立太子を実現させ,その東宮大夫となった。康平8年2月9日死去。71歳。養女茂子が生んだ白河天皇の即位により正一位太政大臣を追贈された。

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