後三条天皇(読み)ゴサンジョウテンノウ

デジタル大辞泉 「後三条天皇」の意味・読み・例文・類語

ごさんじょう‐てんのう〔ゴサンデウテンワウ〕【後三条天皇】

[1034~1073]第71代天皇。在位1068~1073。後朱雀ごすざく天皇の第2皇子。名は尊仁たかひと。外戚に藤原摂関家がないため、天皇親政実現に努力。荘園整理令の発布、記録荘園券契所の設置、標準ますの制定など、新政策を推進した。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「後三条天皇」の意味・読み・例文・類語

ごさんじょう‐てんのうゴサンデウテンワウ【後三条天皇】

  1. 第七一代天皇。後朱雀天皇の皇子。母は陽明門院禎子内親王。名は尊仁。治暦四年(一〇六八)即位。在位五年。母が藤原氏でなかったことから藤原氏の専横をさけて親政を行ない、記録荘園券契所を設置して荘園を整理するなど、政治刷新に努めた。長元七~延久五年(一〇三四‐七三

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「後三条天皇」の意味・わかりやすい解説

後三条天皇 (ごさんじょうてんのう)
生没年:1034-73(長元7-延久5)

第71代に数えられる天皇。在位1068-72年。後朱雀天皇第2皇子,母は太皇太后禎子内親王(陽明門院)。諱(いみな)は尊仁。1045年(寛徳2)異母兄親仁親王(後冷泉天皇)即位に際し東宮となる。摂関家は直接外戚関係のない尊仁の立太子を喜ばず,関白頼通は女寛子を,彼の同母弟教通は女歓子を後冷泉天皇に入れたが子どもに恵まれず,尊仁は彼らの圧迫をうけながらもその地位を保ち,68年(治暦4)後冷泉天皇が没すると35歳で即位。頼通はその前年関白を辞し,教通が関白となる。天皇の母は頼通らの父道長と対立して不遇であった三条天皇の皇女であったし,頼通らの圧迫も経験したので,即位後は外戚関係の薄くなった摂関家を抑えて親しく政治を行い,村上源氏の源師房や,東宮時代から側近にあった学者出身の大江匡房らを重用した。しかし天皇は公明正大で,東宮時代に摂関家に同調して冷淡な態度をとった者でも能力あるものは用い,政治の刷新に努めた。1069年(延久1)2月,さきに新立荘園停止令が出された1045年(寛徳2)以後新置の荘園と,それ以前の荘園で券契不明で国務を妨げるものを停止し,同年閏10月に記録荘園券契所を設けた。摂関家が券契の提出を拒んだことが伝えられるが,実際には天皇の方針に従ったらしく,この延久荘園整理令はかなり効果があったと考えられる。天皇は一方で後三条勅旨田とよばれる皇室領を設置している。また公定価格を定める估価(こか)法や,標準の枡(宣旨枡)を定める斗升法など経済的施策を行った。また円宗寺(もと円明寺)を建て,1072年(延久4)ここで最勝・法華二会を修した。同年2月皇太子貞仁親王(白河天皇)に譲位,翌年5月没。なお天皇は譲位後,院政を行う意志があったとの説が古くからあるが,まだ結論は下し得ない。天皇は学問に優れ,《後三条天皇御記》(《延久御記》)を記したが,逸文のほかは伝わらない。陵は円宗寺陵(京都市右京区)である。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「後三条天皇」の意味・わかりやすい解説

後三条天皇
ごさんじょうてんのう

[生]長元7 (1034).7.18. 京都
[没]延久5 (1073).5.7. 京都
第71代天皇(在位 1068~72)。名は尊仁(たかひと)。後朱雀天皇の第2皇子。母は三条天皇の皇女禎子内親王 (陽明門院) 。治暦4(1068) 年践祚し,次いで即位した。学を好み,才能卓抜,資性剛健で,母が藤原氏の出でなかったため摂家にはばかるところがなく,また藤原氏の内紛に乗じて摂関の専権を抑えて万機を親政した。記録所を設けて荘園整理断行し,成功 (じょうごう。売官) ,重任(ちょうにん)の悪弊を厳禁し,禁中の調度供御を簡約にし,標準枡として宣旨枡延久宣旨枡)を定めた。また敬神崇祖の念あつく,日吉社をはじめ諸社に行幸し,みずから円宗寺を造立して法華会と最勝会を勅修した。陵墓は京都市右京区の円宗寺陵(えんそうじのみささぎ)。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「後三条天皇」の解説

後三条天皇

没年:延久5.5.7(1073.6.15)
生年:長元7.7.18(1034.9.3)
平安中期の天皇。名は尊仁。後朱雀天皇の東宮時代に三条天皇の皇女禎子内親王(陽明門院,母は藤原道長の娘妍子)を母として誕生。3歳で親王宣下を受け,父の死去で義兄の後冷泉天皇の即位にともない12歳のとき皇太弟となった。翌年に元服すると大納言藤原能信の養女茂子(実父は中納言藤原公成)を妃とし,ここに誕生したのがのちに院政を開始した白河天皇である。治暦4(1068)年,義兄の死去にともない即位,ときに35歳。24年におよぶ東宮の経験に加え,関白藤原教通と外戚関係がなかったことから親政をおし進めた。在位中の延久年間(1069~1074)に記録荘園券契所(記録所)を設置して荘園整理を推進し,宣旨枡という公定枡を制定し,秤量における不均衡を是正したことなど見るべきものがあった。特に荘園整理による摂関家の打撃は大きく,収公された荘園の多くは後三条天皇領となった。しかし在位5年足らずで第1皇子の白河天皇に譲位し,第2皇子の実仁親王(白河の異母弟)を東宮とした。譲位の理由として院政を行うためという説が早くからあるが(『愚管抄』ほか)決め手を欠き,病気と実仁親王の立太子とが原因という説が有力。半年後,病のため出家し(法名は金剛行),まもなく崩じた。遺骸は京外東の神楽岡で荼毘に付された。陵は京都市右京区竜安寺朱山の円宗寺陵。

(朧谷寿)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「後三条天皇」の意味・わかりやすい解説

後三条天皇
ごさんじょうてんのう
(1034―1073)

平安後期の天皇(在位1068~72)。名は尊仁(たかひと)。長元(ちょうげん)7年7月18日生まれ。後朱雀(ごすざく)天皇の第2皇子。母は三条天皇皇女陽明門院(ようめいもんいん)禎子内親王。このころまでの天皇は藤原摂関(せっかん)家を外戚(がいせき)としていたから、皇族を母としたのはまれな存在であったが、父の遺言により皇位につくことができた。おもな施策としては以下のとおり。延久(えんきゅう)の荘園(しょうえん)整理令の発布(1069)と、これを実施するための記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ)(記録所)の設置。新たな公定枡(ます)として延久の宣旨(せんじ)枡の指定と、これに基づき荘園・公領を問わず全国的に行う一国平均役の徴収。国衙(こくが)によって作成され、中世における土地の基本台帳となった大田文(おおたぶみ)の作成、全般的にみて藤原氏一族でも反摂関家的立場にあった中流貴族や、受領(ずりょう)層・皇族出身者の登用、成功(じょうごう)や重任(ちょうにん)を抑制しようとする政策などを行った。このような新政策は院政に継承され、中世的な国家体制への出発点ともなった。ただし、即位5年で譲位したことによる院政政治への意図については不明の点が多い。延久5年5月7日死去。御陵は京都市右京区竜安寺朱山(りょうあんじしゅやま)の円宗寺(えんしゅうじ)陵。

[川島茂裕]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「後三条天皇」の意味・わかりやすい解説

後三条天皇【ごさんじょうてんのう】

平安後期の天皇。後朱雀(ごすざく)天皇第2子。母が藤原氏出身でなかったので,1068年即位後は藤原氏の専権を押え親政を行った。1069年記録荘園券契所を設けた。1072年譲位。→荘園整理
→関連項目大江匡房記録所白河天皇重任

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「後三条天皇」の解説

後三条天皇
ごさんじょうてんのう

1034.7.18~73.5.7

在位1068.4.19~72.12.8

後朱雀天皇の第2皇子。名は尊仁(たかひと)。母は禎子内親王(陽明門院,三条天皇の皇女)。1045年(寛徳2)死に臨んだ父によって皇太子に立てられる。関白藤原頼通はこれに異を唱え,陰に陽に圧迫もあったが,68年(治暦4)異母兄後冷泉天皇が嗣子なく死去したため即位した。荘園整理政策や記録荘園券契所の設置,宣旨枡(せんじます)の制定など,みるべき治績を残す。72年(延久4)長子の皇太子(白河天皇)に譲位し,同時に2歳の次子(実仁(さねひと))を立太子させた。譲位の目的は実仁立太子にあったとみられ,院政の傾向を示すが,病気により翌73年に出家し,譲位の半年後に死去した。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「後三条天皇」の解説

後三条天皇 ごさんじょうてんのう

1034-1073 平安時代中期,第71代天皇。在位1068-73*。
長元7年7月18日生まれ。後朱雀(ごすざく)天皇の第2皇子。母は禎子(ていし)内親王(陽明門院)。後冷泉(ごれいぜい)天皇の死により35歳で即位。藤原教通(のりみち)を関白としたが,荘園整理令をだし,公定枡(ます)を制定(延久の宣旨枡)するなど,すすんで親政をおこなった。延久5年5月7日死去。40歳。墓所は円宗寺陵(えんそうじのみささぎ)(京都市右京区)。諱(いみな)は尊仁(たかひと)。法名は金剛行。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

旺文社日本史事典 三訂版 「後三条天皇」の解説

後三条天皇
ごさんじょうてんのう

1034〜73
平安中期の天皇(在位1068〜72)
御朱雀天皇の皇子。母は三条天皇の皇女で,摂関家と直接関係がなかったので,関白藤原教通を抑え,醍醐 (だいご) ・村上両源氏や大江匡房 (まさふさ) らを登用した。成功 (じようごう) ・重任 (ちようにん) を禁じ,1069年記録荘園券契所(記録所)を設け延久の荘園整理を断行,また標準枡として延久の宣旨枡を定めるなど政治の刷新につとめた。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

367日誕生日大事典 「後三条天皇」の解説

後三条天皇 (ごさんじょうてんのう)

生年月日:1034年7月18日
平安時代中期;後期の第71代の天皇
1073年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の後三条天皇の言及

【輔仁親王】より

…後三条天皇の第3皇子。母は源基子。…

【宣旨枡】より

…延久年間(1069‐74)に後三条天皇の勅命によって制定された平安時代中期の公定枡。延久宣旨枡ともいう。…

※「後三条天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android