蜂屋庄(読み)はちやのしよう

日本歴史地名大系 「蜂屋庄」の解説

蜂屋庄
はちやのしよう

平安時代よりみられる庄園。現美濃加茂市に蜂屋の地名が残る。この蜂屋を中心とした加茂郡内の庄園と考えられる。藤原忠実時代の摂関家経済を知ることができる「執政所抄」には、中濃地区所在の庄園を主体とした京都法性寺修二月会に餅三〇〇枚(各庄五〇枚)を貢献する庄園の一つとして蜂屋庄がある。蜂屋庄をはじめとするこれら中濃諸庄は、摂関時代後期から院政初期にかけてのある時期にほぼ一括して摂関家領となったと推測される。その後、長寛元年(一一六三)頃と推定される美濃国諸庄未進注文(兵範記裏文書)のなかに「蜂屋本庄廿八疋」との記載がある。なおこの未進注文に「月志津野廿四疋」と「□田百疋」があるが、月志津野=志津野しつの(武儀郡)は蜂屋庄の一部とも考えられており、また「□田」を太田おおたとすると、この時期蜂屋庄は本庄を中心に、幾つかの部分に分割されていたことが判明する。

建長五年(一二五三)一〇月二一日の近衛家所領目録(近衛家文書)以下の史料には蜂屋太田・蜂屋志津野が現れるが、蜂屋本庄の姿は見いだせない。一方、建久二年(一一九一)一〇月日の長講堂領目録(島田文書)には「蜂屋南庄」「同北庄」があって、ともに元三雑事以下の諸公事・諸役を勤仕している。また年月日未詳の六条殿修理料支配状写(八代恒治氏旧蔵文書)でも、蜂屋南庄が東対六間中の「西端二間付釣屋」を、北庄が西対六間中の二間分を、それぞれ負担している。平安時代末の動乱から鎌倉幕府草創に至るいずれかの時期に蜂屋本庄は摂関家領から皇室領に移管され、かつ南・北二庄に分割されたと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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