裏木曾三ヵ村
うらきそさんかそん
現在の恵那郡加子母村・付知町・川上村は江戸時代以来の三ヵ村であり、三村をまとめて裏木曾三ヵ村とよんだ。木曾駒ヶ岳(二九五六メートル)を主峰とする木曾山脈と飛騨山脈に囲まれ、木曾川上流の狭隘な地域を木曾と称し、現在の長野県木曾郡一帯のことをいう。この地から生産される檜材をはじめとする良材を木曾材、この地域一帯の山々を木曾山と総称する。裏木曾三ヵ村は「濃州徇行記」に「元和元卯年御拝領御加増知の時材木山ある処を御選出し川上村、付知村、加子母村、三ケ所つかはさるゝに付それより三ケ村と申伝べしとなり」と書かれている。東は長野県木曾郡王滝村・大桑村・南木曾町・山口村と接し、小秀山(一九八一・七メートル)、高樽山(一六七二・八メートル)、三国山(一六一〇・九メートル)などの山々を境界とする。川上川・付知川は南に流れ木曾川に、加子母川は加茂郡東白川村・白川町を経て飛騨川に合流している。
木曾は「続日本紀」大宝二年(七〇二)一二月一〇日条に「始開美濃国岐蘓山道」とあり、「三代実録」元慶三年(八七九)九月四日条に「吉蘇・小吉蘇両村」は美濃国であるとの境界紛争の裁決がなされている。木曾が信濃国になるのは、元禄一四年(一七〇一)江戸幕府の国絵図再製作以後のことである。一四世紀半ばから、伊勢遷宮材が美濃山に設定されるが、どの地域をさし、どの範囲を示すかは特定できない。裏木曾の伐木に関する初見は、文安五年(一四四八)四月の南禅寺仏殿用材刻印案(新南禅寺文書)に「みのゝ国つけち山」「みのゝ国いてのこうり山」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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