改訂新版 世界大百科事典 「裴矩」の意味・わかりやすい解説
裴矩 (はいく)
Péi Jǔ
生没年:548?-627
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
中国の隋(ずい)朝で、第一の西域(せいいき)通として聞こえ、蘇威(そい)、宇文述、裴蘊(はいおん)、虞世基(ぐせいき)と並べて「五貴」といわれた名臣。山西省聞喜(ぶんき)県の出身で、北斉(ほくせい)、北周、隋、唐の四朝に仕え、内外に活躍したが、とくに605年から610年にかけて、しばしば河西に出張し、隋の西域貿易に指導的役割を演じた。このとき彼は、通商のために河西に往来していた西方商人に説いて、首都での中央政府との直接取引を行わせ、辺境貿易を首都貿易に切り替える一方、彼らから聞知した諸事情に基づき『西域図記』を撰述(せんじゅつ)して煬帝(ようだい)に献じ、大いに西域貿易への熱意をあおった。煬帝はやがて河西に親しく出向くほどの関心を示した。隋が滅びたのちは、唐朝に帰順して殿中侍御史から民部尚書(しょうしょ)にまで取り立てられた。
[松田寿男]
… 6世紀の末に270年ぶりに中国本土の南北統一を実現した隋朝は,第2代の煬帝(ようだい)の治世になると積極的に西域への進出をはかり,敦煌郡がおかれた。この煬帝の西域経営は,張掖や敦煌に派遣されて西域各国の商人から風土や地理について聞き書きし,《西域図記》を著した裴矩(はいく)の献策に負うところが多い。隋末の混乱期には,敦煌は涼州に拠った李軌の支配下に入ったが,唐朝が成立した翌年の619年(武徳2)に唐の支配がおよんで瓜州となり,まもなく沙州と改称された。…
※「裴矩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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