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裴矩 はいくPei Ju; P`ei Chü

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

裴矩
はいく
Pei Ju; P`ei Chü

[生]大統13(547)頃
[没]貞観1(627).8.19.
中国,隋,唐初の名臣。河東聞喜 (山西省聞喜県) の人。字は弘大。初め北斉に,のち北周の楊堅 (のちの隋の文帝 ) に仕え,文帝の側近として全国統一に活躍。煬帝 (ようだい) 即位ののち,数回河西方面に派遣され,西域通商拡大に指導的役割を果した。西域人から情報を集めて『隋西域図記』 (3巻) を撰した。吐谷渾 (とよくこん) 遠征にも参画し,聞喜県公に封じられた。隋末に煬帝の側近として随行したが,帝が殺されてからは宇文化及竇建徳 (とうけんとく) に仕え,やがて唐に帰順して民部尚書となった。

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世界大百科事典 第2版の解説

はいく【裴矩 Péi Jǔ】

548?‐627
中国,隋・唐初の政治家。名族河東(山西省)の裴氏の出身。字は弘大。北斉から隋に仕え,宇文化及,竇建徳(とうけんとく)を経て最後は唐にも用いられる波乱に富む一生を送った。なかでも隋の煬帝(ようだい)のもとで,《西域図記(せいいきずき)》を著し,西域諸国との関係改善,交易拡大に努め,吐谷渾(とよくこん)の排除にかかわるなど対外方面で活躍する一方,〈選曹の七貴〉(のちに五貴)の一人として重用され,煬帝の暴政の一翼を担ったことでも知られる。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

裴矩
はいく
(557―627)

中国の隋(ずい)朝で、第一の西域(せいいき)通として聞こえ、蘇威(そい)、宇文述、裴蘊(はいおん)、虞世基(ぐせいき)と並べて「五貴」といわれた名臣。山西省聞喜(ぶんき)県の出身で、北斉(ほくせい)、北周、隋、唐の四朝に仕え、内外に活躍したが、とくに605年から610年にかけて、しばしば河西に出張し、隋の西域貿易に指導的役割を演じた。このとき彼は、通商のために河西に往来していた西方商人に説いて、首都での中央政府との直接取引を行わせ、辺境貿易を首都貿易に切り替える一方、彼らから聞知した諸事情に基づき『西域図記』を撰述(せんじゅつ)して煬帝(ようだい)に献じ、大いに西域貿易への熱意をあおった。煬帝はやがて河西に親しく出向くほどの関心を示した。隋が滅びたのちは、唐朝に帰順して殿中侍御史から民部尚書(しょうしょ)にまで取り立てられた。[松田寿男]

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世界大百科事典内の裴矩の言及

【敦煌】より

… 6世紀の末に270年ぶりに中国本土の南北統一を実現した隋朝は,第2代の煬帝(ようだい)の治世になると積極的に西域への進出をはかり,敦煌郡がおかれた。この煬帝の西域経営は,張掖や敦煌に派遣されて西域各国の商人から風土や地理について聞き書きし,《西域図記》を著した裴矩(はいく)の献策に負うところが多い。隋末の混乱期には,敦煌は涼州に拠った李軌の支配下に入ったが,唐朝が成立した翌年の619年(武徳2)に唐の支配がおよんで瓜州となり,まもなく沙州と改称された。…

※「裴矩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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