北斉(読み)ほくせい

日本大百科全書(ニッポニカ)「北斉」の解説

北斉
ほくせい

中国の王朝(550~577)。東魏(とうぎ)の実権者高洋(高歓の子)が、傀儡(かいらい)皇帝である元氏を倒して創建した。単にとも、創建者の姓をつけ高斉ともいう。東魏の領土と首都((ぎょう))をそのまま受け継ぎ、ライバルの西魏=北周に比べて人材、物資ともに豊富であったが、結局、北周に滅ぼされた。北斉の君主には暴君、暗君が相次いで、独裁権を強め奢侈(しゃし)や乱行が多く、東魏以来の武将たちを抑圧。一方、皇帝に取り入って勢力を挽回(ばんかい)しようとする漢人貴が政界を牛耳(ぎゅうじ)り、また皇帝の側近には身分の卑しい追随者たちが党派をなして権勢を振るった。これらの勢力が互いに凄惨(せいさん)な相克を繰り広げたので、国家はその内部からむしばまれ、華北統一の契機を北周に奪われた。

谷川道雄

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「北斉」の解説

北斉
ほくせい
Bei-qi; Pei-ch`i

中国,北朝 (→南北朝) の一王朝 (550~577) 。北斉王朝は東魏の実権者高歓 (神武帝) によって事実上築かれたが,形式的には高歓の第2子高洋が天保1 (550) 年東魏の孝静帝に位を譲らせ,帝位について国を斉と号し,鄴 (ぎょう) に都したのに始る。国号は斉であるが,南斉と区別してこの名で呼ばれる。山西河北山東を根拠地とし,その政策鮮卑中心主義が大きく打出されていたが,中国的な貴族制もやや形式的ながら維持された。一時は国力も充実していたが,のち北周の武帝によって滅ぼされた。

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旺文社世界史事典 三訂版「北斉」の解説

北斉
ほくせい

550〜577
南北朝時代の北朝の1つ
東魏の実権を握っていた高歓 (こうかん) の子高洋が孝静帝の禅譲を受けて建国。都は鄴。一時は北周や南朝の,さらには突厥 (とつけつ) をも圧迫して富強を誇ったが,後半期は内政が混乱し,逆に突厥などの圧迫を受け,北周によって滅ぼされた。

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精選版 日本国語大辞典「北斉」の解説

ほく‐せい【北斉】

中国、南北朝時代の北朝の一つ(五五〇‐五七七)。東魏の実権者高洋(文宣帝)が帝位を奪って建てた鮮卑族の国。北は契丹・突厥を討ち、西の北周、南の陳に対抗したが、四代で北周の武帝に滅ぼされた。高斉。斉。

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世界大百科事典内の北斉の言及

【斉】より

…479‐502年。北朝の斉を北斉と呼ぶのに対して南斉と呼ぶ。晋陵武進(江蘇省常州)に僑置された南蘭陵蘭陵の人,蕭道成(しようどうせい)(高帝)が創業。…

【斉】より

…550‐577年。北斉,高斉ともいう。東魏の実力者高歓の死後,その地位を引き継いだその子の高澄は政権奪取を計画していたが,不慮の死をとげた。…

※「北斉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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