中国,隋の2代皇帝。在位604-618年。名は広。文帝楊堅の次男。母は文献独孤皇后。581年(開皇1)晋王に封ぜられ,南朝陳の併合には行軍元帥となり,突厥(とつくつ)の侵入や江南の鎮撫に手腕をみせた。こうした功績と母后の偏愛を巧みに利用し,失脚させた兄の楊勇にかわって皇太子となり,604年(仁寿4)文帝が死ぬと大臣楊素とはかって遺詔を改竄(かいざん)し,楊勇などを殺害したうえで位についた。文帝が女婿柳述らのすすめで再び楊勇を立てようとしたため,これを察知した煬帝が先手を打って文帝を弑逆したのだという説もある。
煬帝は弟漢王楊諒の反乱を鎮圧するとすぐ,大業の年号にふさわしい大土木工事に着手,通済渠(黄河~淮河(わいが))をはじめ,608年(大業4)の永済渠(黄河~涿郡(たくぐん)),610年の江南河(長江(揚子江)~銭塘江)開削を行い,前代の山陽瀆(邗溝(かんこう),淮河~長江)を改修し延々1500kmの大運河を完成した。長安から江都(揚州)に至る運河沿いには寿安県の顕仁宮ほか40余の離宮を置き,のべ200万人を動員し修築した東都洛陽には全国から数万家にのぼる富豪を強制移住させ,近郊には江南からの物資を貯蔵する巨大な洛口・回洛両倉を設け経済中心の都市にしたてた。ただし,これらが十分生かされるのは唐代になってからである。また対外的にも積極策に転じ,南では即位早々林邑(りんゆう)(現在のベトナム南部)を攻撃したが,608年には赤土国(スマトラのジャンピあるいはパレンバン付近)が入貢し,610年には朝貢のすすめに応じない流求国(台湾あるいはフィリピン)を侵略している。聖徳太子が607年小野妹子を派遣したのも,こうした煬帝の積極外交と無関係ではない。西方では煬帝みずから吐谷渾(とよくこん)を討って西域交通路を確保,高昌国ほか27国が来貢した。一方,北辺では突厥の啓民可汗を臣服させ,呼応して契丹に大打撃を与え,2回にわたり長城(万里の長城)に大修築を加え国威を誇示する大巡幸を行っているが,ただ東北に位置する高句麗だけは煬帝の意に従わず,ついに戦端が開かれることになった。
文帝のとき一度失敗した経験を生かし,運河の完成を待って軍需物資と大軍を涿郡に集結すると,612年陸・海両路より攻めたが一敗地にまみれ,翌年改めて攻撃した。だが第1次遠征の失敗は国威を失墜させ,各地は重租と徴用に苦しむ農民達が蜂起する世情不安の最中にあった。ついに楊素の子楊玄感の反乱が勃発し再び挫折した。反乱は鎮圧したものの各種の暴動は拡大する一方となり,614年の第3次遠征による高句麗との和平交渉も早々に東都に帰った煬帝は,宇文述の進言に従い長安と洛陽に孫の代王楊侑,燕王楊倓(ようたん)を留守に残し江都に逃れた。617年太原より長安に入城した唐公李淵(後の高祖)が楊侑(恭帝)をたて煬帝を太上皇に奉じたが,江南の文化に憧れその風土を慕う煬帝は江都の生活に満足し,すでに北帰の意志はなかった。このため家族を北に残す官僚や兵士達の不満がつのり,618年3月15日,宇文述の長男宇文化及を首謀者とする兵変が起こり,煬帝は兵士に絞め殺され,弟の楊秀はじめ子孫,外戚もほとんど殺された。煬帝は諡(おくりな)であり,〈天に逆らい民を虐(しいた)ぐ〉などの意味だという。
執筆者:藤善 真澄
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中国、隋(ずい)の第2代皇帝(在位604~617)。姓は楊、名は広。古来「ようてい」と読まず「ようだい」と読む。煬は悪逆な皇帝を示す諡(おくりな)である。隋の文帝の次子で、母は文献独孤(ぶんけんどっこ)皇后。初め晋(しん)王になり、南朝陳の討滅に活躍し、兄の皇太子勇を失脚させて、自ら皇太子となった(600)。権臣の楊素と結んで帝位についたが、そのとき父文帝を殺し、その妃を犯したといわれている。即位後は万里の長城を修築したり、洛陽(らくよう)に東京(東都)を営造し、南北を結ぶ大運河を完成させるなど、盛んに大規模な土木工事をおこし、人民に過重な負担を与えた。自らこの大運河に竜舟を浮かべて、華美な巡幸をしたが、大運河の開通は、南北を舟運で結び、江南の物資を北へ運びやすくし、南北融合に大きく貢献した。対外的には、北方に強盛を誇った突厥(とっけつ)や西方の吐谷渾(とよくこん)を討ち、また突厥と結ぶおそれのあった高句麗(こうくり)に三度にわたって遠征した。とくに612年の第一次遠征は、113万の大軍と、その倍の輸送隊を動員した大規模なものであった。しかし、それでも高句麗を完全に制圧することはできなかった。
その第二次遠征のとき(613)、後方で楊玄感の反乱が起こり、これは2か月で鎮定されたが、こののち各地に反乱が起こり、隋末の反乱期に入った。これは、煬帝の過重な人民の酷使のうえに、飢饉(ききん)、水害が重なったためである。しかし煬帝は大業礼、大業律令(りつれい)の整備や、大運河の完成にみられるように、単なる無能な暴君ではない。煬帝は隋の亡国の君主であり、煬帝の事績は、隋を倒した唐朝史官によって記されているため、その悪い面ばかり残っているという見方もできる。煬帝の晩年は、戦乱をよそに風光の美しい揚子江(ようすこう)北岸に近い江都(揚州)に移ってぜいたくな生活を営み、最後は臣下の宇文化及(うぶんかきゅう)に殺された。聖徳太子の遣隋使は、煬帝のもとへ派遣されたものである。煬帝は熱心な仏教信者で、天台宗の開祖の智ぎに帰依し、智者大師の法号を贈った。また、詩人としても一流で、「飲馬長城窟行(いんばちょうじょうくっこう)」は代表作である。
[布目潮渢]
『宮崎市定著『隋の煬帝』(1965・人物往来社)』▽『布目潮風著『隋の煬帝と唐の太宗』(1975・清水書院)』
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569~618(在位604~618)
隋の第2代皇帝。姓名は楊広,別名は英。文帝楊堅(ようけん)の次子。父の即位で晋王となり,討陳軍の指揮をとり,兄の皇太子勇を失脚させ,父を殺して位を奪った。大運河を開き,長城を修築し,吐谷渾(とよくこん)を討って西域への道を開いた。さらに林邑(りんゆう),流求(台湾)を討ち,赤土国を入貢させたが,3度の高句麗遠征に失敗し,農民,豪族の反乱を招いて江都(揚州)の離宮で兵士に殺された。
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…李氏は宇文氏(北周),楊氏(隋)らと同郷で,互いに通婚していわゆる武川鎮軍閥を構成した。李淵と楊広(隋の煬帝(ようだい))とは独孤氏姉妹をそれぞれ母とする従兄弟関係にある。李淵は貴族の子弟の通例として侍従武官コースを昇進したが,独裁君主煬帝に忌まれて,韜晦(とうかい)につとめた。…
…中国,北周の武将で外戚でもあった楊堅(文帝)が,581年(開皇1)北周を奪って建国し,子の楊広(煬帝(ようだい))と2代38年間つづき,618年(皇泰1)に唐に取って代わられた中国の王朝。581‐619年。…
…608年には永済渠が開かれたが,これは沁水(しんすい)を南へ黄河まで導き,そこから北へ今の衛河の線に沿って涿(たく)郡(北京市南西)に達したもので,高句麗征伐のための物資輸送が目的である。611年煬帝(ようだい)は江都から山陽瀆,通済渠,永済渠を通って涿郡まで行った。長江の南では京口(江蘇省鎮江市)から今の杭州市に至る江南河が,すでに610年に開かれている。…
…皇帝以下に菩薩戒を授け,太極殿で護国のために《大智度論》と《仁王般若経》を講じ,また光宅寺で《法華文句》を開講した。隋の文帝が征陳の軍を起こすや,兵乱を避けて廬山に入ったが,晋王楊広(のちの煬帝(ようだい))の請いにより,591年(開皇11),54歳のときに揚州に赴いて菩薩戒を授け,王より智者の号を贈られた。のち廬山を経て故郷の荆州に帰り,玉泉寺を創建して《法華玄義》と《摩訶止観》を講じ,596年に10年ぶりに天台山に入って国清寺を修復し教団の生活規定を制定した。…
… 六朝時代には広陵郡の中心は淮陰(わいいん)(清江市)に移り,こちらは建康に近い軍事上の要地として,しばしば南北両軍の戦乱の舞台となった。隋の煬帝(ようだい)は,揚州(江都郡)を南方経営第一の拠点としてきわめて重視し,その太守は京兆尹(けいちよういん)(長安の長官)と同じ秩禄であった。さらにこれまで部分的に開かれていた水路を結んで大運河が開通すると,長江水運との交会点をなす揚州は全国第一の交通中心の位置を得,煬帝自身しばしばこの地を訪れて滞在し,江都宮をはじめとして宮殿園林を築いたが,煬帝の最期の地ともなった。…
※「煬帝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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