日本歴史地名大系 「西側町」の解説 西側町にしがわちよう 大阪府:大阪市浪速区西側町[現在地名]浪速区木津川(きづがわ)一丁目難波(なんば)村の西、木津川沿いにある。もと前垂(まえだれ)島といい、慶安三年(一六五〇)下難波村庄屋氏原家が開発した町場で、下難波村(難波村)に属した(西成郡史)。寛文期(一六六一―七三)の貼札をもつ大坂町中並村々絵図には下難波村新家とみえ、天保郷帳には西側村とある。惣寺社一件留(成舞家文書)の延宝九年(一六八一)の書上によると下難波村庄屋半三郎請所とあり、文化三年(一八〇六)の村内囲米記録(「御用向留抄」大阪市史編纂所蔵)にも地主庄屋が甚左衛門(氏原氏)となっており、当地は氏原家の所有地として存続したことが知られる。開発以来幕府領。 西側町にしがわちよう 京都市:下京区植柳学区西側町下京区西洞院通六条下ル西側南北に通る西洞院(にしのとういん)通(旧西洞院大路)に東面する片側町。町の中央を東西に花屋町(はなやちよう)通が通る。北側は六条(ろくじよう)通(旧六条大路)にも面する。平安京の条坊では、左京七条二坊四保一六町東側と一五町東北隅の地。平安時代中期、当町より学林(がくりん)町にかけては蓑和入道造立の箕輪(みのわ)堂(耳納堂)の敷地であった(坊目誌)。近世には西本願寺寺内町となり、寺内九町組のうち西洞院組に所属。町名は寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「西洞院一丁目」とあり、その後二町に分裂。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by