西原清東(読み)さいばら・せいとう

朝日日本歴史人物事典 「西原清東」の解説

西原清東

没年:昭和14.4.11(1939)
生年:文久1.9.8(1861.10.11)
明治期の代言人,政治家。のちテキサス米作王。高知県出身板垣退助立志学舎,神田茂松学校で学び司法代言人(弁護士)となる。明治25(1892)年の第2回臨時総選挙での政府の選挙干渉は高知で激しく,西東は当選無効の訴訟を起こして勝訴した。31年の第6回総選挙には憲政党より立候補して当選,全国最年少議員となる。徴兵問題で危機下の同志社を社長となって救った。明治35年全地位を棄てて渡米,神学校に学んで海外発展思想を抱く。全財産を処分してテキサスに西原農場を開設,郷里より移民を導入して南部一帯に米作産業を興し,「ライス・キング」と呼ばれた。のち,事業を多角的に拡張したが,排日機運が高まるなかでブラジルに日本人大集団地建設を構想,大正7(1918)年にブラジルへ再移住。サンパウロ方面で甘蔗栽培と米作,アマゾン地域で米作などを試作したが,市場不足で挫折。ブラジル滞在14年で諦め,以後フィリピン,台湾でも同様の試みを続けた。日本民族の非軍事的,平和的かつ民族性を失わない海外発展の可能性を最後まで追求した。<参考文献>猪野正義『巨人西原清東』

(前山隆)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「西原清東」の解説

西原 清東
サイバラ セイトウ


肩書
衆院議員(立憲政友会),同志社社長

生年月日
文久1年9月8日(1861年)

出身地
土佐国高岡郡出間村(現・高知県土佐市出間)

学歴
立志学舎

経歴
明治17年立志学舎に入り、司法代言人(弁護士)の資格を得る。31年には全国最年少の38歳で、憲政党から衆院議員に当選。翌32年同志社社長に就任。35年渡米して、ハートフォードの神学校に入学。のちテキサス州ウェブスターに西原農場を創設、郷里より移民を導入してテキサス米を作り“ライス・キング”と呼ばれた。大正7年ブラジルへ再移民、在14年で甘蔗栽培や米作りを試みた。この間、移民会社支配人として移民促進に尽力、“移民の父”といわれた。

没年月日
昭和14年4月11日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「西原清東」の解説

西原 清東
サイバラ セイトウ

明治〜昭和期の農園経営者 同志社社長;衆院議員(立憲政友会)。



生年
文久1年9月8日(1861年)

没年
昭和14(1939)年4月11日

出身地
土佐国高岡郡出間村(現・高知県土佐市出間)

学歴〔年〕
立志学舎

経歴
明治17年立志学舎に入り、司法代言人(弁護士)の資格を得る。31年には全国最年少の38歳で、憲政党から衆院議員に当選。翌32年同志社社長に就任。35年渡米して、ハートフォードの神学校に入学。のちテキサス州ウェブスターに西原農場を創設、郷里より移民を導入してテキサス米を作り“ライス・キング”と呼ばれた。大正7年ブラジルへ再移民、在14年で甘蔗栽培や米作りを試みた。この間、移民会社支配人として移民促進に尽力、“移民の父”といわれた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「西原清東」の解説

西原清東 さいばら-きよき

1861-1939 明治-昭和時代前期の農場経営者,政治家。
文久元年9月8日生まれ。明治19年弁護士,31年衆議院議員(政友会),32年同志社社長。37年アメリカのテキサス州に西原農場を開設,米作に成功してライス-キングとよばれた。昭和14年4月11日死去。79歳。土佐(高知県)出身。神田茂松学校中退。通称は清東(せいとう)。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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