西土手町(読み)にしどてまち

日本歴史地名大系 「西土手町」の解説

西土手町
にしどてまち

[現在地名]中区さかい町一丁目・土橋どはし

ほん(太田川)に架かる山陽道の猫屋ねこや(本川橋)西詰より、本川西土手沿いを南に延びる町で、南は西地方にしじかた町に続く。広瀬組に属した。「知新集」に「このところ本川西土手側なるゆゑ名つく」とあり、新町組の東土手町(のちの稲荷町西組、現南区)とともに地形に由来する。

元和五年広島城下絵図では町間数一町二〇間、寛永二年広島町数家数改め(済美録)では「西土手町」として本家・借家各一五軒。南側小路辺りを唐人とうじん町とよび「知新集」では当町に続く枝町とし、両町合わせて町間数一丁五一間三歩九毛、竈数二七(本竈八・借竈一九)、人数一〇一(男四八・女五三)


西土手町
にしどてまち

[現在地名]明石市大明石町おおあかしちよう二丁目

城下町との境を固めた樽屋たるや御門から郭内に入り、外堀沿いに西へ真っ直ぐ延びる町。北は中堀の西不明にしふめい門から南に延びた大横おおよこ町と、外堀の王子おうじ御門を入って南へ延びる上水じようすい町に接する。東は樽屋御門を挟んで中土手なかどて町、南は外堀に、西は当町の西の端で北に折れ曲がった外堀に面していた。明石藩の上級家臣が居住した家中町の一つ。享保年間(一七一六―三六)の明石城下図、文久年間(一八六一―六四)明石町之図、同三年の明石町旧全図に町名がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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