日本大百科全書(ニッポニカ) 「明石藩」の意味・わかりやすい解説
明石藩
あかしはん
播磨(はりま)国(兵庫県)明石郡に置かれた藩。天文(てんぶん)期(1532~1555)には明石川西の台地に国人(こくじん)明石長行(ながゆき)の枝吉城が知られ、天正(てんしょう)期(1573~1592)に別所吉親(べっしょよしちか)が下手の平地に舟上(ふなげ)城を築いた。ともに明石城といわれた。この舟上城は、播磨平定に陣を進める羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉の三木(みき)城(別所長治(ながはる))攻略に前後して、1576年(天正4)秀吉方の蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)、1578年高山右近(うこん)が一時居城とした。1600年(慶長5)関ヶ原の戦い後、池田輝政(てるまさ)が播磨一国52万石を領知した。同年黒田長興(ながおき)が舟上城主になったが、改めて筑前(ちくぜん)秋月に転じ、ここには輝政の支城として、兄之助(ゆきすけ)の遺子由之(よりゆき)が入った。
播磨国姫路の池田氏が1617年(元和3)光政(みつまさ)の代に鳥取に転封し、本多忠政(ただまさ)が加古(かこ)、印南(いなみ)以西を領知した。他方、明石、三木両郡10万石には徳川家康の外孫小笠原忠真(おがさわらただざね)が信濃(しなの)国松本から入封して、初め舟上城におり、翌1618年命ぜられて人丸(ひとまる)山に明石城を築いた。以後は1633年(寛永10)戸田康直(やすなお)、1639年大久保忠職(ただもと)、1649年(慶安2)松平忠国(ただくに)が入封。3家とも領知7万石で、ただ忠国の嗣子(しし)信之(のぶゆき)が弟に5000石を分知した。その後1679年(延宝7)に入った本多政利(まさとし)から本高6万石になる。政利は山手台地の新田開発に努めたが、巡見使に不仁を指摘され、1682年(天和2)奥州岩瀬郡に新知1万石で遷(うつ)された。かわって越前(えちぜん)家支流の松平直明(なおあき)が越前大野より入って定着した。1839年(天保10)2万石加増で計8万石、領知は明石、三木、佐用(さよ)3郡にわたり、明治の廃藩置県(1871)に及んだ。
[阿部真琴]