改訂新版 世界大百科事典 「西山会議」の意味・わかりやすい解説
西山会議 (せいざんかいぎ)
Xī shān huì yì
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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1925年11月23日、中国国民党の右派が党中央に対抗して北京(ペキン)の西山で開いた会議。鄒魯(すうろ)、謝持、居正、張継(ちょうけい)、林森、戴天仇(たいてんきゅう)ら有力な政客を含み、西山会議派(西山派)として国民党内に一定の勢力を占めた。国共合作のもとで広東(カントン)に本拠を置く国民党が革命運動を進めているとき、孫文(そんぶん/スンウェン)の遺体を安置した西山の碧雲寺(へきうんじ)で右派の一部が会議を開き、連ソ・容共・工農扶助の三大政策に反対を表明し、やがて党中央を名のったが、広東の党中央は彼らの処分を決定した。しかし、国民党の主流を握る蒋介石(しょうかいせき/チヤンチエシー)らが、27年4月に反共に転じてからは、西山会議派はそれと合流し、戴天仇などは孫文思想の右派的解釈の主唱者になった。
[安藤彦太郎]
…
[国共合作の破綻と国民党支配の確立]
孫文の死後,1全大会の方針を継承する党内実力者は左派の廖仲愷であったが,8月,暗殺された。また,1全大会の方針策定過程で当初より共産党との合作に反対であり,またその手続きにも批判を持つ右派すなわち中央執行委員の林森,張継,鄒魯らは,25年11月~12月,北京の西山で会議(いわゆる西山会議)を行い,共産党員排除を決議した。しかし全国で燃えさかる反帝反軍閥の大衆の闘争の中で,26年1月に広州で開かれた2全大会は,共産党員呉玉章が大会秘書長となり,共産党と左派が連合して右派の攻撃を破り,1全大会の方針をいっそう固め,大衆運動を喚起するための多くの重要な決議を採択した。…
※「西山会議」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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