西岡(読み)にしのおか

日本歴史地名大系 「西岡」の解説

西岡
にしのおか

[現在地名]西京区上桂以南全域及び向日市・長岡京市一帯

乙訓おとくに郡のほぼ全域と葛野かどの郡のうち桂川以西(右岸)の大部分を含む包括的地域名。範囲は、桂川用水の給水地域である一一ヵ郷とほぼ重なる。中世ではそこに居住する土豪・国人が西岡衆とよばれた。

文献では建武三年(一三三六)七月一一日付足利尊氏御教書(東寺百合文書)に「山城国西岡」とあるのが早い。畿内に強固な支配基盤を持たぬ足利尊氏の幕府は、京都と西国・山陽道を結ぶ重要地点の乙訓郡一帯を掌握するため、革島かわしま(現西京区)下司革嶋幸政、寺戸てらど(現向日市)竹田成忍・大畠定覚、上久世かみくぜ(現南区)公文大弐房覚賢、西七条(現下京区)越前房友快らの土豪・地侍層に御家人として地頭職を宛行い、また西岡一帯の寺社領荘園に半済を実施して、下地の半分をこれら御家人層に与えた。以後この地の土豪は西岡衆または西岡中脈なかすじ地頭御家人衆とよばれ、室町幕府を支える軍事的基盤となった。

西岡衆は、奉公衆(将軍の親衛隊長)の下に属する下級武士団であり、室町中期までは、山城守護から半ば独立した存在であった。ところが、正長元年(一四二八)管領畠山満家が山城守護を兼帯(満済准后日記)して以来、特に宝徳元年(一四四九)以降は一、二の例外を除き畠山氏のみから山城守護が任ぜられ、西岡衆もしだいに畠山氏の影響力を受けるようになった。永享九年(一四三七)八月の鎮守八幡宮供僧評定引付(東寺百合文書)などからも、守護が管国内の地侍の被官化をはかっていることがわかる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報